私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.75
花に嵐
     北陸支部 明工ネオン(株)  谷筋草平

谷筋草平さん 馬鹿ほど高い所に上りたがるといわれます。 昭和35年、初めての就職先が配電工事会社。電柱の上での作業をしている姿に憧れ、親兄弟の言うことも先生からの勧めも聞かないで、自分は電気屋になるんだと、希望を胸に(実は何も考えてはいない)、電気屋の世界へ飛び込みました。しかし一年と続かず退社、昭和38年頃まで各電気工事会社を転々。
 よく言えば武者修行、悪く言えば辛抱が足りないヤツ、はっきり言って後者のほうです。が、そのおかげで近道もしました。各電気工事は 高圧、低圧、弱電とその上それぞれの得意分野があり、本当に勉強になりました。
 話は少しさかのぼりますが、昭和36年の秋の事です。奥飛騨の上宝村を流れる高原川上流で支流、双六渓谷からの合流地点に見座と言う地名の小さな村があります。穂高の山々の支流を集めて いっきに下り高原川と成ります。
 やがてこの川は富山県と岐阜県の県境で宮川と合流し、神通川と成り、富山市街を真っ二つに分けるようにして富山湾に注がれています。 この高原川の水はとてもきれいで、夏でも大変冷たく 年中イワナが釣れるような川です。その川へ合流する双六谷の水の色がまた格段に奇麗なのです、ことばでは言い表せません 想像に任せることにします。赤松の老木と峡谷の風景が溶け合うように映り、まさに見惚れて座す所です。
 この見座から峡谷沿いに軌道が着いています。営林省の管轄で木材の運搬や、電源開発の関係者のみを運ぶそのトロッコに乗って終点の中ノ俣迄、トロッコで1時間半くらい。そこで営林署と電力会社の宿泊施設2棟 電気設備工事を、10日間くらいの工程です。その間、未だ9月だというにみぞれや霰の日もあり、如何に山奥深い所か想像がつくと思います。
 そこでは短い期間(私には 非常に長く感じました)でしたが、飯場暮らしの体験もしました。
 そんな奥山へ資材を運ぶには、当日富山から出発しても一番発のトロッコに間に合いません。見座より高原川沿いに車で30分ほど下った山間に神岡町があります。三井金属神岡鉱業所の鉱山町です。その神岡町の旅館に泊まり、朝一番発のトロッコに乗るために立ち寄ったときの事です。風呂に入り、夕食を済ませぶらっと表に出て、あっと仰天してしまいました。なんと煌びやかな、町の各通りという通りの両サイドに鈴蘭灯がギッシリ、全部ネオンです。ネオンもあれだけの量が使用されると、その壮観さに圧倒され、暫くその場で釘付けになったものです。
 その頃の富山の繁華街といえば、専門店などの壁面や突き出しのチューブオンリーネオンがポツン、ポツンと点いているだけ。それでもアクリ行灯看板も競い合うように点灯していて、富山の夜もそれなりに明るくてきれいな町だと思っていましたが、神岡の夜 以来、ネオンのあやなす光景が自分の体の一部に滲みついてしまいました。
 今、神岡の町は、そんなことあったのかとでもいうように当時の面影もなく、ひっそりとした、何処にでもあるような山間の町です。
 昭和37年の春、その日も朝から気乗りのしないまま、仕事にかかる前の 作業手順の事で仕事仲間とつまらぬ口論と成り、腹を立て自分だけ会社を辞めてしまいました。
 辞めてしまったものは仕方がないが、若い者が明日から遊んでいる訳にもいかず、家に帰って、その日の新聞の社員募集覧から職探し。電気関係では電気工事会社1社とネオン会社の2社のみ、早速2社共 履歴書を送りました。(その時点では未だ返事もきていないのに気持ちはもうネオン屋です)。2、3日してネオン会社から面接日と付近見取り図の書いたはがきが、もう1社からは梨の礫です。
 後で知った事ですが、そのネオン会社は私の面接をどうしょうか迷ったそうでした。当時私の家は富山駅まで駅間だけでも1時間以上かかる僻地です。今から思うとよく採用して頂けたと思います。
 募集に応募したのは、私ともう一人、市内の人で、そのひとは3ヵ月くらいで辞めてしまいました。
 ネオン会社に入社して1年後に、専務から よく一年間まじめに休まなかった、とほめられました。採用はしたものの、いつまで続くやらと当てにしていなかったそうです。
 ネオン管の曲げ加工などは、先輩に少しコツを教えて頂きましたが、その後もさほど苦労もしないで数ヵ月後には、ネオン管の曲げ加工を任されるようになりました。
 工場での物作りも好きですが、天気のよい日は現場に出て仲間と声をかけ合いながらの仕事がまた楽しい。もともと高い所での作業も好きで 正に自分の天職だと思ったくらいです。 
 器用貧乏という言葉があります、少し履き違えているかもしれませんが、何もかも初めて。当たる仕事は好奇心もあって、夢中に成り懸命に仕事を覚えようと努力もしますが、少しモノになったらもう一人前に成ったかの錯覚する。気持ちにも余裕が出てくると、あれこれ気が多く、詰まる所、また忘れかけていた、あの武者修行の血が騒ぎ出す。これって病気ですね。
 そんな時、あることがキッカケで、私がネオン屋を独立することになってしまいました。その時の自分は独立しようなんて思っていなかったのに、です。引っ込みのつかないまま、人に言われてただ意地に成り、成り行き任せの船出と成りました。
 昭和44年春、結婚。そうしてその年の12月 小さいながらも我が家を新築、翌年6月長女誕生。その年、昭和45年9月退社。10月1日明工ネオン創業と、今 思い出すと、ぞっとします。無計画で無鉄砲な、道理もなにもあったものではない、若かったから、病気をしなかったから、事故が無かったから、いろいろありますが、唯、只運がよかったの一言に尽きるかと思います。
 創業まもなく 未だ準備期間中のような時に、お客様のほうから何処で電話番号を調べたのか、顔みせに来い と、言って下ったあの時の嬉しさは今も忘れません。
 今も大事にお付き合いさせて頂いております。
 創業ほぼ同時に忙しく、夜も昼もなく働きました。昭和48年暮のオイルショック迄はほとんど休みもなかったと思います。
 しかしオイルショックで“ネオンは ダメ”には驚きました。
 トンネルの出口が見えないまま何年も過ぎ、もはやダメかとも思いましたが、その頃はまだ30代なんとか乗り切ることが出来ました。  仕事は何でも請け負いました。そのうちに 徐々にですが、ネオン塔も再登場するようになると、今度はいっきに何処もここもネオン、ネオン、また夜も昼も休む日も無く、眠る間もない毎日です。
 あれは平成元年。パチンコ店のオープンが、8月3日に2店、5日に1店、8日に1店と、8月初めの 1週間の間に4店舗オープンの時は、どうして収めることが出来たか、自分でも思い出せません。ただ、眠ることができなかった、眠らなければと思い布団の中に入れば、眠っていてもいいのかと思い、ほとんど眠れなかった。
 このような忙しい年が何年も続きましたが、今はそんなことが また懐かしい。
 創業から40年近くになりますが、良い事、またそうでない事と、いろんなことがありましたが、有事、或いは流行に大きく左右され、振り回されながらも、ここ十数年 泣かず飛ばずの状態ですが、今迄ネオン屋としての事業が続けられたことは、偏に今迄、降る日も照る日も、共にしてきたスタッフはもとより、関係業界を取り巻く皆々様方のおかげと、心より感謝申し上げます。
 最後になりましたが ネオン協会の皆様の、ご健勝 ご多幸を、ご祈念申上げます。



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