私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.77
ネオン業から社会に羽ばたく (続編)
     関東甲信越支部 (株)日高ネオン  梅根憲生

梅根憲生さん業界活動で自分を高める
 当社と業界団体との付き合いも長くなります。まだまだ業界の新参者でありながら、兄が関東ネオン業協同組合の理事になったのは設立10年後の昭和55年でした。その後、全日本ネオン協会の理事を昭和63年から平成4年まで2期4年勤めて退任しました。同じ平成4年には、私が後を継ぐように組合理事に、平成6年には協会理事に就任し、今年でそれぞれ8期16年、7期14年務めたことになります。
 この間、組合では、専務理事を8年、副理事長を4年、協会では総務委員長を6年務めました。理事在任16年間のほとんどを強烈なリーダーシップと使命感を持った廣邊裕二会長・理事長のもとで活動し、多大な影響を受け、暖かいご指導をいただきました。また、平成8年から、今井和徳氏が協会専務理事、私が組合専務理事を務め、専務タッグを組んで、協会設立30周年記念事業をはじめ多くの困難な事業を積極的に推進すると共に、山積する諸課題に果敢に対応したことが思い出されます。当時、協会副会長を務めていた板野遵三郎氏や組合副理事長を務めていた小野博之氏も同年輩であり、気が置けない同僚役員として、公私にわたって濃密なお付き合いをしていただきました。
 また、44年の長い歴史を持つ「どんぐり会」では、今日まで27年間、会員として多くの仲間とゴルフを楽しみました。今や、最長老の1人ですが、6年前に会長を仰せ付かり、伝統の継承の一翼を担ったことも楽しい思い出です。協会の同僚役員の会社は、社歴も長く2代目経営者が多い中で、長い間、業界の新参者との思いが強くありましたが、当社も今年で創業40周年を迎えることになります。ここまでお付き合いいただいた同僚役員の皆様に感謝すると共に、深い感慨を禁じ得ません。そして、昨年、業界団体と並行して長い間活動していた地元の経営者団体である武蔵野法人会の会長を引き受けることになりました。3つの団体の要職を務めることに困難を感じたことと、業界の世代交代のうねりは時代の要請でもあると思い、今年の5月に、協会・組合の役職を辞めさせていただくことにしました。力不足もあり、果たして業界活動に十分貢献できたか、はなはだ疑問ではありますが、この間、素晴らしい先輩、同僚、友人にも恵まれ、また、業界活動を通して自分自身を高めることが出来たことに対し、深く感謝しています。

業界の地位向上を目指す
 長期間の業界団体の役員として、屋外広告業界の社会的地位の向上、認知度の向上は常に私の強い関心事でした。業界には多くの見識の高い同業者が活躍していますが、大手広告代理店、ゼネコンをはじめ、地域経済界における当業界の社会的地位・評価は、ネオン屋、看板屋の域を超えることが出来ず、残念ながら決して高いとは言えません。これまで、多くの先輩、同僚が地位向上のために、叙勲、褒章、著作など立派な業績を残され、その成果は着実に上がってはいますが、充分とは思えません。
 数年前の一連の金融機関の合併に伴うサイン切替工事では、大手広告代理店、ゼネコン、果てはサインに不案内な印刷会社までもが参入し、実際に施工する我々の業界は2次、3次の下請として、採算の悪い受注を余儀なくされたものです。多くの同業者が業界の低い地位を嘆き、元請に対する不満は鬱積していました。当社は、平成17年に、多摩地区3信金の合併による100店舗程度のサイン切替工事で、大手D印刷会社と張り合い、元請受注を獲得したことがあります。元請管理会社として強引に売り込んできたD社の管理が、業務遂行に全く必要でないことを信金理事長に直訴し、D印刷会社を排斥しました。業界の地位向上のために、業界の意地としての気概で戦ったことを憶えています。また、昨年、4300社の武蔵野法人会の会長を引き受けた時にも、ネオン屋の会長であることに違和感を覚えた会員がいたそうです。私は、同時に20万社の東京法人会連合会の副会長にも、110万社の全国法人会総連合の理事にも就任しましたが、全国で442名いる法人会会長の中でも、ネオン屋ははじめてかも知れません。会長就任は決して本意ではありませんでしたが、心のどこかで業界の地位向上を願ったことは否めません。業界の次代を担う若い従事者が、業界に誇りを持って仕事に専念することが出来るよう願って止みません。

後継に期待
 会社の方も、早いうちにリタイアしたいところですが、あと数年は難しそうです。本来なら長男を5年も前に後継者として呼び戻すつもりでしたが、業界の業況が低迷し、業界の将来が展望できない状況を考えますと、上場会社で将来を約束された息子を呼び戻すことに躊躇せざるを得ませんでした。一時は、自分で作った会社だからと、会社に体力のあるうちに清算することも1つの選択肢であると思いましたが、社員の生活や将来、企業の社会的使命を考えますと会社の存続は何としてでもやり遂げねばならないと思うようになりました。むしろ、青年の柔軟な発想に期待し、ともすれば悲観的になりがちな高齢者の発想を打破することが出来るかも知れません。充分に話し合いの上、今秋までには、長男を迎え入れることにしています。

人生の最終章を迎えて
 私は、若くして脱サラし、自分で自分の人生のレールを敷くことができる中小企業経営者という道を選んだことを良かったと思っています。経営がどんなに苦しくとも、これは何事にも替え難いメリットであったと思っています。そして、これまで仕事だけでなく、業界団体、法人会をはじめ多くのボランティア活動に参加し、仕事だけでは味わえない豊かな人生を体験することが出来たことも、企業経営者であったからこそだと思っています。しかし、私も既に67歳。日本の男性の健康寿命は71歳だそうです。我々世代は否応なしに人生の最終章に入りました。残された余生を如何に悔いなく有意義に過ごすかが、今、私の最大の関心事です。あと数年は、後継する息子を育てながら、武蔵野法人会で最後の社会的責任を果たしたいと思っています。兄は、ニュージーランドに長期滞在して、渓流釣りやゴルフ三昧のリタイア生活を楽しんでいますが、私も、70歳までには、すべての公職をリタイアし、妻と共に海外旅行や音楽・映画鑑賞、ゴルフなどの趣味を楽しみながら、スローライフを送りたいと思っています。

(終わり)


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