私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.103
いつの間にか社長になっていた私
     東北支部 東北エスピー( 山田 

山田 浩さん  28年前、画家志望で芸大の受験に何度か失敗し、当時チリ紙交換で小遣いを稼いでいた私。ふと目に止まった「東北エスピー株式会社『うちの会社は、あったかいチームワークが、魅力です』」の求人広告。
 看板屋さん?デザイナー募集か?へぇー毎日絵が描けて楽しそうだなー…世間知らずの私が、面接を受けたのは創始者の篠崎徹社長。でっぷりとした貫禄のある体にパンチパーマ、鋭い目力。一目見て、「しろうとではない」という感じ。
 しかし印象とは逆に、穏やかな口調と真剣な話しぶりからは、何故か私には今までに感じたことがないくらい真っ直ぐな気持ちが伝わってくるように感じました。
 「君は絵がすきなのか。しかし絵ではメシは食えないだろう。絵は趣味でやればいい」
 その一言に、内心私は、「まだまだ画家の道を諦めているわけじゃない。仕事はその為の一時的なものだ…」などと、気持ちの中で舌を出していたのですが、まさかこの会社が趣味で絵を描く時間などとてもない、とんでもなく忙しい会社だったとはその時は知るよしもありませんでした。
 デザイナー募集で入ったはずの私は、しばらくすると工場で毎日のように鉄骨の塗装にあけくれ、そして現場の施工の手伝い。朝4時に会社を出発。岩手県まで出張して、日帰りで夜遅く帰ると次の日の現場の積み込み。同時期に営業で入った人も1週間ともたず、いつの間にかいなくなる始末。昭和60年当時、どんな業界も人手が足りなくて、特に現場の取り付けをメインにやっていた東北エスピーのような会社は、労働集約型で仕事をこなしていく以外道はなかったのでしょう。
 東京の看板施工会社から独立し、福島県、宮城県の物件をフォローする為に広告代理店の推薦でこの地に出てきた篠崎社長には、当時まだ郡山の地元には頼る係累も無く、仕事は外注率ゼロで、製作から取り付けまですべて自社でこなしていました。
 郡山や福島の駅前の大型ネオン広告塔なども、かなりの数を手掛けていたのではないでしょうか?
 納期間際に破損管が出て、曲げ屋さんのところで何回土下座してネオン管を曲げてもらったことか。秋から年末までは、毎年のように繁忙期、土・日・祭日まったく休み無し。朝早くから、夜は徹夜の工事も。今では、信じられないような話ですが、当時は皆当たり前のようにやっていたのかもしれません。
 新米の私が、当時出始めのビデオカメラを年末の忘年会の席で撮影しながら、楽しそうに飲んで騒いでいる仲間を映すファインダーが、涙でくもっていたのを今でもはっきりと覚えています。
 毎日朝から夜遅くまで休みもなく、雪のちらつく現場で高所の作業を続ける仲間たち。年末の忘年会で、初めて見るやっと休めるという解放感に満ちたその表情を、私は正視することができなかったのです。
 そんなハードな東北エスピーで、私などが良く続いたものだと今でも考えますが、それは目に見えて実現してゆく、篠崎社長の「夢」があったからと今でも思っています。
 借地の工場が私が入社した3年目で現在の場所に移り1000坪の敷地の新工場になり、会社でモーターボートやマリンジェットを購入。夏はそれを持って猪苗代でキャンプ。
 毎年のように、国内・海外への大型社員旅行。バブル時代とはいえ、社長は社員への精一杯の福利厚生を考えたのでしょう。
 そんなバイタリティのある篠崎徹社長が病で倒れたのは、新社屋が完成してわずか7年後のことでした。そして景気もその辺の時期を境に下降線をたどっていきました。
 その後を受けた、奥様である篠崎喜代子社長は、数億の借金をしょってわれわれ社員を束ね奮闘。売上が一時期の半分にまで落ちた中、精一杯社長業を続けられていました。そんな中5、6年前喜代子社長から「あんた社長をやる気はないのか」という話。静岡出身の喜代子社長には実子や近い親類がいなかったのです。
 「とても私はそんな器ではありません」今思うと、あの時社長は自分の病気のことに気付いていたのでしょう。
 それからしばらくして、喜代子社長は肝臓の病気で入退院を繰り返すようになりました。
 リーマンショックでわれわれの業界も今まで以上に仕事が冷え込んだ時期。月の経常赤字は400万を超え、29期は6月の時点で累積2000万以上の赤字となっていました。
 仲間の一人が、「山田さんが社長を受けなければ誰もやる人はいません。みんな応援しますから、会社をなんとかしてください」 と、涙のでるような言葉。
 やるしかない!しかし、今はどん底の景気。毎月増え続ける赤字。借金の返済もまだまだ残っている。社長を受けるには、先のことも良く考えなければならない。
 そんな時に頭に浮かんだのは、小学校の40年ぶりの同級会の席で、担任の女の先生が言った言葉。「人生に必要なものは、感動と勇気と、ほんの少しのお金」です。
 3年前の9月に私は社長を交代し、その10カ月後に、喪主として喜代子会長を社葬で社員全員と共に見送ることになりました。
 幸運にも良い仕事にも恵まれ、社員の皆様と何とか30期、31期は黒字決算。訳あって会社の庭に建てた石碑。初代社長が大好きだった言葉「わが師に勝る師は無し」 その裏には、御二人の名前と命日がしっかりと刻まれています。
 今の私があるのは、先代の社長と前社長のおかげ。会社をやってゆけるのは、いっしょに働く社員さんたちのおかげです。
 来年33期目を迎える会社。
  いつの間にか社長になっていた私です。

 


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