NEONミュージアム

万博のシンボル、黄金の顔が上がって「ネオン屋はすごいね」と言われた
廣邊裕二(公益社団法人全日本ネオン協会名誉会長/東京ネオン(株)会長)

 1970年、大阪万博会場のおまつり広場のシンボルとして建設された太陽の塔。世界中の注目を集めた岡本太郎の、もっとも良く知られた芸術作品だ。「モダニズム一色の世の中にバカみたいにどかんと立つベラボーなものを造りたかった」と、岡本太郎は後年のインタビューに答えている。
 太陽の塔は今も吹田市にある万博記念公園に現存する。輝かしい未来を象徴しているという、その空中に突き出た黄金の顔(第一の顔)の施工・設置をまかされたのが当協会の元会長である、東京ネオン鰍フ廣邊裕二会長。社屋の三階にあるご自宅リビングで当時の経緯をお聞きした。

あの黄金の顔は、実はゼネコンがさじを投げたんだよ。
 当時僕は専務で37、8歳。怖い物知らずでノーと言ったことがない。ゼネコンができないといったからそれじゃやってやろうと。できないことはないとまず思ったね。ネオン屋は5、60メーターの高所はいつも上ってるからね。
 当時うちにいた永瀬という社員、これが元同級生で僕がうちの会社に来いよと引っ張った男で、最初は永瀬がネオン屋は高所が得意ということでゼネコンに呼ばれたところから始まった。でも永瀬が自分では判断できないから専務が行ってくださいというんだ。
 取り付ける高さは70メーター、黄金の顔の直径は12メーター、目の直径が2メーター。
 巨大な円形の表面に、ゼネコンは最初金箔を貼ると言っていたが、予算が半端じゃないし、屋外ではもたないだろうということになり、そこで、住友3Mのスコッチカルシートの通称赤金がどうだろうかと、さっそく鉄板に貼ってサンプルを作って青山のアトリエへ行き岡本太郎さんに見てもらった。気に入ってくれて、全面的に任せてくれた。うちは住友3Mの最初の施工代理店だったんだ。
 本体の構造体は岐阜の橋梁屋にお願いし製作した。表面には亜鉛引鉄板を貼付け、表面仕上材として住友3Mの赤金のスコッチカルフィルムを貼付け、輝く黄金色を表現することにした。 当時のゼネコンの見積もりは6〜8000万。実際には1500万ほどでできた。
 まだスコッチカルが出始めで、屋外でどの程度もつのか分からなかった。屋外の施工例は少なく、飛行機に一部分貼ったことがある程度と、奈良のお寺のほんの一部に貼ったことがあるくらいだった。住友3Mに聞いても「多分5年は大丈夫だが、まあもって10年かな」と言うところだった。しかし、45年経って今まで1回表面をきれいに掃除しただけだ。たいしたものだね。
 設置現場では僕は陣頭指揮だった。
 実際には半分ずつ0.9ミリの鉄板にスコッチカルを貼って、現場で組み立てた。
 顔の目の部分には出力1kwの水銀灯の投光器が仕掛けられているが、これも東京湾で船に乗せてテストしたんだよ。
 黄金の顔を滑車を使ってモーターでつり上げて腕のいい山口組の鳶に上がってもらってシノでギャッと合わせて完成。歓声と拍手がわき起こった。シンボルの太陽の塔の顔を取り付けるというので、太郎さんはもちろん、万博のゼネコンの監督が全部集まって100人以上が見守る中、「ネオン屋はすごいね」と言われた。その当時は写真を撮っておくということがなかったので、今から思えば残念だった。 

 
 施工当日は風だけが心配だった。太郎さんも僕の話を聞いて「わかった」と任せてくれた。明け方が一番風がないので、上手い具合に天気に恵まれ朝一番に無風状態で作業をすすめることができた。当日は何の問題もなかったんだ。
 今度、太陽の塔の仕事をやるといったら親父も喜んだが、お袋がすごく喜んだね。小説家岡本かの子の息子の岡本太郎の作品だということで、その話を太郎さんにしたら、とても喜んでくれたね。ネオン屋で良かったと思ったよ。

  取材を終えて、「この仕事はたまたま僕がそのポイントにいて、絡んで実現したんだと思う」と廣邊さんはおっしゃった。
 時代を象徴するような作品に関わることができた勢いと、ネオン屋ならではの技を発揮でき輝いていた、怖いもの知らずで若々しい当時の廣邊さんが目に浮かぶ。
*1970年に開かれたアジア初の日本万国博覧会、通称大阪万博は3月14日から9月13日までの183日間、入場者数は記録によると6400万人。当時の日本の人口が約1億1千万人、二人に一人が訪れたという計算になる。
 太陽の塔は2010年に日本万国博覧会開催40周年記念事業の一環として、日没から23時まで毎夜点灯された。なお、投光器は飛行機の運航に支障が出ないよう148個のLEDを使用した輝度の低いものに交換されている。
 塔の内部は空洞になっており、生命のエネルギーを生物の進化に託して表現したオブジェ「生命の樹」(高さ約41m)を、当時約920万人がエスカレーターに乗り鑑賞した。閉幕後は入場制限されていたが、公園の管理・運営をしている大阪府が修復を決め、2017年をめどに一般公開予定。万博50周年となる2020年に、国の有形文化財登録の申請を予定し、世界遺産登録も目指すとされている。
インタビュー:根本裕子 立ち会い:小野博之



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