エッセー

 

新国立競技場の本当の問題点

NEOS編集顧問 小野博之

 去る7月17日に白紙撤回された新国立競技場のデザイン案は、この秋新規の公募を開始することになっている。新案決定も施工も残された時間はあとわずか。私にははたして決着はつくのかという疑問がぬぐえない。今回の混乱の発端はコスト問題であり、それが責任論に発展し、様々な問題が派生的に明るみに出てきた。これからの推移を関心を持って見守るしかないが、この競技場のあり方に新聞もテレビも報じないもっと基本的な問題が隠されているように思われて仕方がない。
 それはこの競技場が巨大すぎるという点だ。このことについては槇文彦氏を代表とする何名かの建築家、研究者が声をあげ、シンポジウムを開き、その内容を今年3月の段階で「新国立競技場、何が問題か」という本にまとめている。本の帯には「歴史ある神宮外苑に、巨大施設は必要なのか」と副題が添えられている。
 そもそも、絵画館のある明治神宮外苑は神宮本殿がある内苑とともに風致地区第1号に指定されている。イチョウ並木のある絵画館前は日本でも珍しいヨーロッパ風のたたずまいを見せ、映画のシーンに登場することも多い。ほぼ30年前、槇文彦氏がこの地に隣接し東京体育館を設計した際、与えられた条件は高さ28メートルを超えるものであってはならないというものであった。そのため、施設の半分に近いボリュームが地下に収められている。しかし、今回採用された入選案はそんな高さをはるかに超え、最大高さ75メートルにもなる。そこには「超超法規」が適用されたと思われるしかなく、それが、何時、誰によってなされたのか、さっぱり報道がない。取り壊された国立競技場は収容人員5万4千人だったが、新国立競技場は8万人だから5割も増えている。同じ土地にこれだけの人員を収容する施設は土台無理なのだ。基本的には敷地をほかの場所に移すべきではなかったのか。

 
 

  今回の施設が巨大化したのは本来の競技機能のほかにメディアとかホスピタリティとかいろいろの付設機能が要求されたからと言うが、それを総合的にコントロールする人間がいなかったのだろうか。
 さらにおかしいのは審査の詳細が一般にまったく報道されていないことだ。審査委員にはどのようなメンバーが加わり、どのような作品の提案があったのかが報道されていない。われわれ国民が知らされたのは提出された46案の中からザハ・ハディド氏の案が決定したということだけで次点はどんな作品なのかもわからない。もちろん、一般にはそこまで報道する必要はないということなのかもしれない。
 では、建築専門の情報誌ではどうなのか。建築業界の人間なら知らないものがいない「新建築」という月刊誌がある。この雑誌では大型のコンペは必ず主要作品を紹介している。私は最近、このような雑誌に目を通す機会もなかったので、「新建築」を出している出版社に電話してみた。このコンペに関する記事は簡単なニュース以外取り扱っていないとのことだった。
 神保町の建築関係出版物を専門に扱う書店で訊いてみたが、このコンペに関する記事を掲出した書籍は、私が既に入手していた冒頭の本以外にはないのだ。それだけこの競技場に対する国民の関心が薄いということなのか。
 ちなみに今回のコンペの事業主体である日本スポーツ振興センターのホームページにもアクセスしてみたが当コンペに関する情報は1行も書かれていなかった。このことに関しては槇氏も「ある種の情報操作があったのではないか」と発言しているが、私も全く同感である。
 今回のコンペの審査委員には建築家の安藤忠雄が委員長として参加している。彼はこの件が世間を騒がせるようになってからまったく発言していない。そればかりか、世間から身をひそめるような態度さえうかがえる。
 私は日本の建築家の中では安藤忠雄の右に出る建築家はいないと常々評価してきた。環境に関しても問題意識は高く、提言も多い。その彼がザハ案を評価したことに関して疑問を抱かざるを得ない。シンポジウムでは、大野秀敏が「車庫に入らないスーパーカー」と言っていたが、敷地に納まりきらない見事な競技場はまさに巨大なスーパーカーそのものだ。まして大赤字を抱える日本にとってはスーパーカーは高すぎる買い物であろう。
 次なる問題は白紙撤回以後についてだ。一般的には入選作品に不都合があった場合、次点の作品を選定するとか、提出作品の中からふさわしいものを再検討するのではなかろうか。ことに今回の場合、日に余裕がない。そんな対案の検討もなく、いきなりゼロベースでと言うのは他の作品提案者に失礼ではなかろうか。かくなる上は瓢箪から駒とでもいいたくなるくらいのビックリするような案を望みたい。


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