ネオンストーリー

 
『ネオンとこおろぎ』
高橋昌男 新潮社


 ところで新宿というと大抵の人がネオンサインを思いうかべる。かくいう私もそのひとりだが、しかし、いつ頃から戦前並みに裏通りのキャバレーやバーの軒先をけばけばしく彩ったかというと、皆と同様私にも答えられない。
 終戦から三、四年は電力事情が悪くてしょっちゅう停電し、ローソクをともしてお膳に向った記憶はあるのに、ガラス管の原色のネオンはそれとは別箇に、早い時期からジージー音を立てながら道ゆく人の顔をとりどりの色に染めていたような錯覚がある。もちろんそんなはずはないので、この回想記風小説を書くにあたってひとつ調べてみようと思い立って、新宿の厚生年金ホールの隣にある東京電力の支社を訪ねてみた。
 窓口の男性は親切に関係ありそうな部署へ電話をしてくれたが、十五分ほど待たされた結果返ってきたのは、どの資料にもネオンがいつ戦後の新宿の夜空を飾るようになったか、いっさい記録がないとのことであった。「でも、もしかしてここなら――」と教えてくれた電話番号を手に家に帰って、日本電気協会新聞部という処へかけてみた。が、やはり判らないという。

-中略-

 私がネオンサインにこだわるのは、ガラス管が剥き出しのまま文字をつくるその毒々しいまでの色彩を、美しいと見た感動がいまもって忘れられないからである。ネオンにイルミネーションが加わって、人が美的感覚を欠く色彩の氾濫、電光の洪水に眉をひそめるのはもうすこし後の話で、しかしそういうかれらといえども、戦後初めてバーやキャバレーの外壁にネオンがともっているのを見上げて、大なり小なりある種の感慨に耽ったのではないだろうか。十六歳の私に限っていえば、それは陰々たる闇から光まばゆい極彩色の世界へ抜け出た証しであり、灯火管制と停電の日々とおさらばする新しい時代との出会いを告げるものだった。
 ネオンがともって間もない寒い夜、こんなことがあった。相変わらず銭湯嫌いの私が、頸に毛糸の襟巻をまいて旭湯の汚いのれんをくぐって外に出ると、小糠雨が舞っていた。傘の用意なぞないから洗面器の石鹸箱をカタカタ鳴らして、甲州街道を走って渡った。霧のような雨が火照った頬に心地よい。街道を渡れば三越の脇へ出る幅六メートルほどの通りである。右手は第一劇場で、左手前方にキャバレー「処女林」の壁面高く赤いネオンが見えた。

 
 

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