サイン屋稼業奮戦記

 Vol.124
縁を紡いで、ただ今奮戦中
    北海道支部 フジ工芸社 小山内隆司

小山内隆司さん  創業26年目となりました 株式会社フジ工芸社の代表を引き継ぎさせていただき、ただいまサイン屋稼業、奮戦しております。
 この業界に興味を持って入ったきっかけは、当時自動車工場で、整備士を志して働いていた3年目のことです。 腰を痛めて退職し、当時は一人暮らしで生活費も底をつく時に、「短期アルバイト急募」の広告に目が留まり、早速応募しました。
 そのアルバイト先というのが、今考えると看板工事業で、良く分からぬまま早朝から深夜にまで及ぶ 鉄骨塗装・チャンネル文字塗装・シート貼り…。現場では作業車に乗り込み、ネオン管職人の横でネオン管を持つ手伝い等、パチンコ屋さんが盛んにネオン看板を取り付けている時代でした。
 ただ、この時は面白味を感じるというよりも、忙しく大変だった事の記憶しかなく、正社員でお声掛け頂いたのですがお断りしてしまいました。
 というのも、実のところ親戚から仕事の手伝いを頼まれていて、次の仕事が決まっていたのでした。
 その仕事場に行ってみると、看板用アクリル加工・アクリル切文字加工・シート加工の施工会社で身内5名。 私が入社した頃は、まだシートフィルムの先駆けでカッティングマシンが会社に導入されておらず、3〜4年はシートへ切り込み原図(コピー用紙)をスプレーのりで貼り付け、デザインカッターを使い、抜いていく…。細かな作業がとても楽しく没頭したものでした。
 その後、色々な縁があり、30歳の時に株式会社フジ工芸社へ入社することとなりました。
 同じ看板業者ですが、施工会社から看板のデザイン、媒体看板、施工管理業務がメインの会社へ移り、今までシート加工・アクリル加工しか経験のない私はカルチャーショックを受けてしまいました。
 先代の社長からは、「看板・ネオンの知識がない、勉強しないとダメだ!」とかなり厳しく叱られ育てられながら、会社同僚、協力会社様にも色々勉強させて頂きました。
 また、当時は札幌を本社とし、東京営業所がありました。社内で沖縄営業所の立ち上げの話が出て、配属の応募があったときの事です。私は入社して2、3年でしたが、真っ先に立候補し、私を含め2名で沖縄へ向かいました。相棒となった1名は1週間ですぐに辞めてしまい、一人取り残された気持ちで不安でした。基本は出張で通い1ヵ月単位で札幌と沖縄を行き来していました。
 当初は一度も沖縄に行った事がなかったため、仕事よりもゴルフ・海水浴ができるかも…!と遊ぶことばかり考えておりましたが、3年間続いた沖縄出張では、朝は先代社長からのモーニングコールから始まり、期待していたゴルフ・海水浴は全くできず、仕事に多忙な日々が続きました。
 そんな沖縄生活の最後に、いつも厳しかった先代社長からご褒美にと、ゴルフに連れて行ってもらえる事になりました。嬉しくて楽しみにしていたゴルフでしたが、なんとパターとシューズを忘れてしまい、先代社長からは白い目で見られながら…、同伴者の方からお借りしながら…プレーをするという、終始緊張したゴルフとなってしまった記憶があります。
 そんな一緒にいると緊張してしまう空気感のある先代社長でしたが、本当に色々な経験、勉強をさせていただきました。 そんな私が現在は会社を引き継ぐことができた事は、今までの周りの方々の支えや叱咤激励があったからこそと思っており、感謝しております。
 少人数ですが、6名の当社スタッフや協力会社様、お取引先会社様にも恵まれ、今後も成長できますよう頑張って参りたいと思います。



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