私の街の老舗看板

 

長崎の岩永梅寿軒

  関東甲信越北陸支部 (株)シーエス・エイ 岩波智代子

 
 長崎は開港以来、幕府の鎖国政策のもと、日本で唯一外国との交易を行う港として開けてきた。とくに貿易船によって、船の安定航行のためのバラスト(脚荷)として砂糖が用いられたので、長崎には大量の砂糖が持ち込まれたのである。
 従って菓子文化が他の地域と比べて発達しており、「丸ぼうろ」「カステラ」「鶏卵素麺」といった南蛮菓子がいまでも残っている。
 そしてこの砂糖を全国に運ぶために使われた道が長崎街道とよばれ、その街道周辺には小城や飯塚といった菓子製造業が盛んな地域や、伝統行事に砂糖をふんだんに使う地域が多い。この事から、長崎街道は別名『砂糖の道』、『シュガーロード』などと呼ばれていた。
 その長崎街道の入り口近く、現在では中通り商店街とよばれているが、そこに岩永梅寿軒は、いまも往事の風格そのままにでんと座っている。創業は幕末、天保元(1830)年であるが、創業当時は勝山という小高い丘の上にあった。その後、矢寄町、鍛治屋町(今の思案橋付近)と移転したあと、今の店は現在の地に、明治35(1902)年、三代目の岩永徳太郎が建てたものである。
 当時の写真でみると、現在とほとんど変わっていない。看板は「和洋御菓子梅寿軒岩永屋」と読み取れるが、このあと大正になってから現在の船板を使った看板になったという。
 
 

 この中通り商店街は江戸の初めから続いていて、長崎に入る一番主たる道であったので岩永梅寿軒の看板が新しくなった時、商店街には鈴蘭灯と呼ばれるアーチ状のゲートサインもあった。岩永梅寿軒の店頭にもネオンの商標看板が取り付けられていたのである。昭和の初めのネオン看板だなんて、さすが店主の先見の目がうかがわれる。店名サインは船板に「岩永老舗」と彫られているが、これは現在もそのままに見ることができる。
 こうして見るといかにも風雪に耐えてきたという趣の看板であるが、事実大変な風雪を乗り越えてきたのである。
 まず昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、長崎への原爆投下である。
 長崎は山に囲まれた町で平野はほとんどない。それが幸いして中通り商店街は落下中心地の浦上地区ほどの惨状にはならなかったが、とはいえその被害は相当なもので、ガラスの破損はいうに及ばず、爆風で建物が全壊、半壊の被害があった。岩永梅寿軒でも爆風で建物が歪んでしまったが、なんとか修復して営業している。
 

  原爆の次が昭和57(1982)年の長崎大水害である。7月23日から翌24日未明まで、長崎を中心とした集中豪雨があり、中通り商店街に平行している中島川では増水した川の流れにより眼鏡橋(重要文化財)を含む石橋群のほとんどが半壊、全壊し、死者行方不明者299名という悲しい結果となった。
 岩永梅寿軒では一階がほぼ浸水し、復旧するのに一ヶ月以上を要したという。
 看板は磨けば光ると昔から言われているが、この店の看板はそんな歴史をのりこえて、見事に光っているのだ。長崎市では魅力あるまちづくりの一環としてこの店に平成8年、都市景観賞を贈っている。
 もちろん岩永梅寿軒は看板だけではない。「看板に真実あり」なのである。その商品のラインアップは、長崎はシュガーロードの名にふさわしく、砂糖たっぷりの逸品ぞろいである。リストアップすると、明国渡来の「寒菊」、昆布と求肥でつくった磯の香り豊かな「もしほ草」、しっとりもちもちの「カステラ」、鯉の姿をした「鯉菓子」、リアルな桃の形をした「桃カステラ」、「桃求肥」など、見ていると子供の頃を思い出す、懐かしくでも今もかわらぬお菓子である。
 ただ、昔ながらの手作りで、大量生産をしていないので季節によって、品物によって予約が必要だそうである。
 長崎生まれ長崎育ちの私は、子供の時からカステラを食べ、桃の節句には桃カステラ、端午の節句には鯉菓子を、贈ったり贈られたりしながら成長したもので、いまもそんなお菓子の数々をみると胸が郷愁で満たされる。今回の取材で長崎市内の老舗看板を見て回ったが、大半がお菓子屋さんであることに気がついた。お菓子は流行に流されないのだ、老舗看板の思い出は、味覚にこそ残されていると思った。
現在の店舗  


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