サイン屋稼業奮戦記

 Vol.132
一期一会の縁
    関東甲信越北陸支部 (株)T&M 諸橋秀夫

諸橋秀夫さん  人との出会いは私にとって波乱万丈奇跡の出来事です。人生70年、電工10年、看板業45年。看板との出会いは東京・中野で叔父が看板屋さんを営んでいたのがきっかけでした。
 19歳の春、はるばる新潟から上京し、東京・渋谷の電気工事会社に入社しました。社員100名以上、社員寮設備がある会社で60名程の入寮者が居りました。仲間うちでは結構喧嘩が絶えませんでした。その原因というのも、ズル休みやら突然行方不明のものやら、電工の仕事はかなり大変でした。今で言う3Kそのもの。それと、女っけがないのが若かった私にとっては不満で、職業を変えなければ現状の変化はないと思っていました。電気工事士の資格は持っていましたので電気の関係する職業に就こうと思っていましたところ、叔父から看板の仕事を手伝ってほしいとの打診を受けました。私にとっては渡りに船と、転職した次第です。
 一生懸命働きました。看板の仕事は工期が短く、結果がすぐ出るのと、看板は作っていて楽しい。それにネオンサインの工事ではえらく儲かるものだと思いました。事情があって叔父の看板屋は3年で退職し、東京・高田馬場駅の近くの看板工事会社に就職し、社員の一人と仲間になり資金を出し合い神奈川県・川崎駅近くに工場を借りて中古のトラックと道具を購入し、共同経営にて看板屋を始めました。
 先輩から「共同経営は無理だよ」と言われたのですが、その時若かったんですね、「やってみなければ分からないです」と反論。案の定3カ月で破綻。
 それからは波乱万丈ですね。和光市の先輩の看板工事会社を廃業するので後を受けてくれないかとの話で、機械工具・トラックを分割払いで購入しました。私と社員3人でスタートした会社経営は5年後に不渡り手形やら工事代金焦げ付きやら、大変苦労があり、この時点で会社をたたもう、そうしたら皆さんに迷惑かけなくて済むと思い、それで新潟に都落ちです。 
 その後、新潟市の看板工事会社に就職しました。素晴らしい方や素敵な方に出会い、現在の株式会社T&Mを設立。9年前の出来事です。当初3人のスタートです。社長は私ですが、親方3人みたいな会社で、和が保てなくなり2人には去っていただいて現在は社員11名。ようやく足元が砂地から少し硬めの土になったかと思います。
 ゼネコン関係現場では、資格のない職人は現場での作業の制限が非常に厳しく、知識・資格のない現場工事による事故も多いのではと思います。知識・資格は身を守る鎧兜になりますね、自ら考え、行動に移し顧客に細やかな対応が出来るコミュニケーション能力を高め、自分の担当のことだけでなく全体を把握できる社員育成に努め、私自身も勉強し変わらなければと思います。
 新潟県内の仕事量は多分県内の業者さん賄える程ありません。なかなか厳しい状況です。当社も4割は県外工事ですのでリスクは大きいですね。
 負けていられません。看板屋稼業奮戦奮闘です!今後も多くの方と出会いたいです。



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