発信簿

 

熊本地震から2年。復旧から復興へ

  九州支部 サンコーネオンひだか 日高 学


 熊本地震から2年経ちました。
 先日、熊本のシンボルというべき熊本城の天守閣のシャチホコが治ったというニュースを聞き、復旧から復興へ、という動きに拍車がかかってきたと感じました。
 あの夜、事務所のパソコンで書類を書いていた時、前触れもなくドーン!!と空気が震え、間髪入れずに大きくグラグラグラ!!っっ!!!と揺れました。倒れてくる棚や資材を避けながら、パソコンだけは守りつつ揺れが収まるまで押え続けました。
 すぐに家族の安否を確認し、瓦礫を避けながら自宅に戻って無事を喜び合い、その晩はご近所さんや友人とツイッターなどのSNSで連絡を取り合い、ホッとして一気に緊張が解け、気絶するように眠りました。
 夜が明け、ご近所さんと「ひどかったねー」と片付けを始めてとりあえず生活はできるかな、となったその夜、さらに大きな本震が。
 前日の比ではないほどの揺れ、停電して真っ暗闇に。気分は中華鍋の中の炒飯の「具」でした。念のため作っておいた安全地帯で子供を庇うのが精一杯で、周りの世界は不気味な家鳴り、ガラスの割れる音、耳より体で感じるほどの地鳴り…これ以上表現できません。4D映画館で見るのホラー映画のポルターガイストのシーンを思い浮かべたら近いかもしれません。
 そして静寂。暗闇。家の中が前日の悲惨な状態に戻りました。
 静かになっても子供がしがみついて離れないのを家内にまかせ、スマホの明かりを頼りに外に出て、近所の方々との無事を喜びあいつつ情報交換。誰々の家が潰れたとか、高速にかかる橋が落ちたとか…。
 幸いなことに、前震で家の中は怖いので避難所や外で寝る人がほとんどだったため、近所で怪我人はいないようでした。
 工場も、我が家も大きな震源地の一つから近く、小さくはない被害を受けました。
 幸い住むことはできる状態でしたが、家族で身を寄せ合って余震を恐れながら眠る日々をどのくらい続けたでしょうか、そんな中、県外の組合員の皆様や取引先、友人知人の各方面からご支援の申し出をいただき、感謝の気持ちで胸いっぱいになったことを思い出します。
 食事の方は周囲に農家さんが多く、前震の次の日から手作りのおにぎりを配ってくれたり、益城町に次ぐ被害の多さから、自衛隊の派遣も早く、支援物資も足りないところに回せるくらいありました。
 数カ月は仕事はさっぱりでした。弊社の話ですが(笑)。
 当然ですが、被害のあったところはサイン計画どころではありません。決まっていた幾つかの仕事は立ち消えになりました。自粛ムードもあったと思います。危険な場所の撤去が少しあっただけで、大きなところは地震後の点検がメインの作業でした。空き時間は自社工場の修復をすることができました。
 ネオンに関する被害で、ネオン管の割れは意外と少なかったと思います、サポートが揺れを吸収していたのかと思われます。割れのほとんどは飛来物や落下物より、振動で銅線の縛りが弱ってきてずれ落ちて接触。そういうものがほとんどだったと思います。下からの突き上げによりトランスが飛んで、またはトランスを留めていた構造物ごと落下というものがありました。
 調べて回った訳ではありませんが、看板だけ脱落などはほとんど聞きませんでした、建物ごと解体ケースはあるかもしれません。
 最初の1年は保険と貯蓄とご支援でとりあえず暮らしてきました。
 現在ではおかげさまで仕事量も過去の8割くらいまで回復しており、一人でやっていますのでなんとか食いつないでおります。
 たまに街の方に行くといつも復旧工事中の熊本城に目が行きます。
 街の中のアーケード街もほぼ建築中だったりしていますが、少し横道に入ると、解体中だったり更地だったりですが、ペースは違ってもそれぞれ少しずつ、少しずつではありますが、熊本は着実に復興の道を進んでいると思います。
 ご支援くださった会員の皆様には心より御礼申し上げます




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