サイン屋稼業奮戦記

 Vol.135
オラ 宝くじ当たったダ!
    東北支部 (有)尚文堂 角田浩二郎

角田浩二郎さん  いつも、妻から「嫁のサインを見落とす」気が利かない看板屋と怒られておりますが、日曜日の夕食時、今日の妻はどうやらご機嫌がよろしいようで! 
 突然!妻は笑顔で子供達に「パパは16年前、宝くじの1等賞を当てたんだよ」と、話し始めました。
 子供達は「嘘だ〜!」の連発!妻はニヤリとしながら、「本当よと!」
 自分は記憶にない。チンプンカン?
 「俺、宝くじ当てた?」
 「一等当てたと」16年前、毎日私に言っていたと。
 徐々に、記憶が蘇ってきた、あら〜言ってた〜!確かにそうだ。私が当たった宝くじの一等賞は、なんと、なんと『妻』だった。出会ったその日に、こんな最高の女はいないと、結婚することを決めた母ちゃんの事だ! 
 「あの頃の面影はどこ! ひょっとして俺、ダマされた〜かな?」
 今思えば、妻との出会いがなければ、社長との出会いや会社そして、看板・ネオンに携わることは、無かったのかもしれません。
 私が看板・ネオンに携わるまでの45年の歳月を話させていただきます。サラリーマンの父と母、姉、兄そして私の5人家族で、父の仕事の関係で転勤、転校を幼少の時から繰り返しておりました。
 実は、私一人だけ家族の中で苗字が違っておりました。本来ならば、父方の渡邊の苗字を名のるのですが、私だけが母方の角田(つのだ)の苗字を継いでおります。その訳は、私の母は戦争で亡くなった父親(私の祖父)の顔も知らないまま、母一人子一人で命がけで生きてきました。そんな母が私の父と出会い結婚しました。長男である父が一人娘を嫁にもらうことは当時、大変なことであり、まして父はこのままでは跡継ぎがいなくなり、母方の苗字が途絶えてしまうことを分かっておりました。そして私の祖母が末期のガンになり、亡くなる数日前に「寂しい」と言った一言に、父は祖母と大切な約束をしたそうです。
 「決してあなたを寂しくはさせない、あなたの想いを、先祖の想いを今生まれてくる息子に継がせる、あなたの養子として角田の苗字を名のらせてほしいと、あなたの生き様をこの子に伝える」と、生まれてくる子供が可哀そうだと言う両家の親戚一同の反対をおしきり、父は決断しました。
 私は戸籍上、母方の祖母の養子になっております。家族と苗字が違うことで誤解されたり、職員室に呼ばれたり、いろいろなことがありましたが、父がしたことは大変素晴らしく、あの決断は正しかったと皆、思っております。お陰様で私も子供達も先祖を敬う心が自然と身についております。
 そんな私も大学で建築を専攻し、就職先も決まり、サラリーマンになると思いきや!運命が動きました。たまたま出会った本!日本最後の宮大工の大棟梁の西岡常一の著書『木のいのち・木のこころ』に感銘をうけました。その中で今も大切にしている言葉があります。
 「木を組む前に、人を組め、人を組む前に心を組め、クセを正しく組み合えば強靭なものができる」と。
 わたしはすぐに日本の宮大工のことを調べ、日本で最大級の総工費45億の本堂を建造する情報をつかみ、そこに携わる宮大工に弟子入りの許可をもらい、大学卒業後、弟子入りし修行に励んでおりました。掃除、ご飯作り、御茶汲み、道具の手入れなど覚え、技術や人間関係の事も含め、多くの事を学びました。同期や後輩は次々と辞めていきました。実は私も一度、逃げだしたことがあります。その時、父からお前に食わせる飯は無いと追い返されました。
 8年が経ち、仙台にある神社の国宝修理の現場に携わった頃、テレビ局が若い職人を紹介する番組で、私の取材をさせてほしいと半年間の取材の後1時間番組を放送していただきました。
 数日後、工場で木材にカンナ掛けをしていると私の携帯が鳴りました。テレビ局のプロデューサーからでした。内容は、放送を見て角田さんに会いたいという女性からテレビ局に電話が来たと、本来なら連絡しないけど、何故か伝えないといけないと思ったらしいのです。私は変わった女がいるなと思いながら、しょうがなく数日後、会う約束をしました。
 出会ったその日、あらま〜なんじゃこりゃ!胸が痛い。矢が刺さりました!一瞬でお互い恋に落ちました。
 後から妻の話によれば何故、電話したか解らないと、宮大工などどうでもよいと!テレビの内容も覚えておらず、角田の名前がテレビ画面で光ってたらしく、映った瞬間すぐ名前を買い物のレシートに写し、電話をしたとの事。その日のうちに結婚する約束をして、2カ月後には結納を交わしました。本人達の想いとは別に不思議に早いスピードで事が進みました。
 結婚式はお世話になった神社でいたしましたが、何事もそんなにうまく行くものではありません。その頃、宮大工の会社の経営状況は悪化しており、給料3カ月未払いのまま、私たちは結婚式をあげました。当然、棟梁は結婚式を欠席。
 その後、職人たちは生活ができなくなり、次々と辞めて行き、悲しいことに、仕事や金の切れ目が縁の切れ目。今思えば私が弟子入りした会社は私が大切にしている宮大工の心は無く、今話題の日大アメフトに似た状況でした。
 数人が残りましたが、じっとしていられず営業活動をしたのは私だけでしたが、お陰様で一軒仕事をもらうことができましたが、ある時棟梁の息子から「お前の結婚は認めないからな!もっと一人前になってからだ!」と、怒鳴られました。仕事を全くせず、親から金をせびり酒におぼれ遊びほうけて離婚した棟梁の息子の言葉に頭に来て、親のすねをかじるのもいい加減しろと私の怒りが収まらず、あっさりと辞める決断をしました。 
 それから、私も家族を養うため、とりあえず仕事はなんでもしました。朝から夜間も死に物狂いで、涙を流しながら、妻と子供には苦労はかけたくないという思いで必死でした!
 そんな時、妻の叔父であり、尚文堂の社長から「うちで仕事をしないか」と、話をいただきました。「捨てる神があれば拾う神!」。
 あれから気がつけば14年の歳月が過ぎ、私を救ってくれた水戸部社長には感謝の気持ちでいっぱいです(本人には言えないですが)。いつも仕事の事で口喧嘩をしておりますが、私にとっては大切な師匠であり、親父のような存在であります。いつも恩返しをしたいと思っておりますが、社長から「今出来る事を、先ずは遣ることが先決だ」と言われるのが目に見えています。
 人生は波乱万丈、若い時の苦労は買ってでもしろと先人達の言葉を今は理解できます。今も未来の人生は、簡単に行かないもの、だから楽しい。
 わたしは、大切なことに気がつきました。そう、私にとって人の出会いこそが宝くじに当たったようなもの。ハズレくじは決してないと、家族、社長、尚文堂や仕事仲間、友の出会いが宝くじの一等賞です。
お客様へ、宝くじ当たったような素敵な夢を実現していただけるよう、仕事を行うことを大切なのだと「お客様の想いを最高の伝わる形へ!」 大正10年創業の有限会社尚文堂。もう少しで100周年。みんなでガンバっぺ〜!
 今さらですが、宝くじ一等数億円。現金で欲しいですけどネ!
 当然会社の工場・増築資金に使いますよ?



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