サイン屋稼業奮戦記

 Vol.151
これからの時代に必要とされるもの
    関西支部 (有)新栄 水沼 博

水沼  博さん いまから43年前、父が大阪府豊中市で共栄工芸という屋号で会社を始めました。
 当時、私は3歳で特に記憶もないのですが、物心が付いたときには父から看板屋についてよく話を聞いた覚えがあります。今でも覚えている事の一つが、ネオン工事が完了した日に夕方まで待って行う点灯確認は本当に奇麗だと誇らしく言っていたことです、また、人々が見るものを作る仕事だという事もやりがいのある仕事だと言っていました。
 私は弟がいて、兄弟二人なのですが、二人とも仕事を継いでほしいと言われたことありません。しかし、今思えばあのころ聞いた話は間接的にそういう思いがあったのかもしれません。
 「看板屋って、何をしているの」と、よく聞かれます。看板屋といっても私の知人でも何をしているか認知している人は少なく、そういう私も子供のころ父がしている仕事を、漠然と看板を作っている仕事だとしか、わかりませんでした。ただ、そのころから、設備投資にお金をかけていたことは知っていましたが、鉄骨工事に、塗装工事や電気工事、基礎工事など、こんなに多岐にわたり完成まで手掛けているとは思いませんでした。
 今では看板屋に普通にあるカッティングプロッターを購入したのが、私が中学生の頃でした。このころから手書きの原稿をFAXでやり取りしていた業界も、メールが必須に変わり始めました。それから少しして高校を卒業した私に、父が「会社を手伝わないか」と声をかけたことがきっかけで仕事を始めました。
 わりと安易に仕事を手伝い始めたわけですが、先にも書いたように入社してからは、覚えることの多さに驚いたことをよく覚えています。
 ちょうどこの頃にデジタル化と同じく流行り言葉になっていたのが、コンプライアンスでした。私も仕事を覚えるのに必死ながらも、これからは私の世代がこういった時代の流れに対応するようにと言われ、次の会社の担い手として資格や法令について学んだことを覚えています。当時は看板業界だけではなく様々な業界で変革期をむかえる中、看板業界も例外なくパソコンの普及など皆が、今後の展開を模索していました。
 入社して一年目を終えようとしている私に、当時社長である父から言われたのは、取引先の会社への出向でした。同じ業界とはいえ職種は全く別物の会社で、やっと仕事にも慣れてきたころに転職のような形になり大変だったことを思い出します。出向した会社は、看板業界の中でもこれからさらに成長するといわれる会社でした。ITの普及から今では看板業界に無くてならない会社です。私は、これから伸びると思われる職種をしっかりと学んで帰ることが出向に期待されていることであろうと思っていましたが、実は少し違った意味もあったようです。少しというのは、後から聞いた話なのですが、自分の親の会社の取引業者だけでなく、その会社で多くの同業者の方々と知り合い、私個人の名前を広めてきてほしいという思いもあったそうです。もちろん、仕事を覚えるのは当たり前ですが。そして、二代目という立場から、自社を引き継ぐことに固執し、狭い視野になることを懸念していたようです。
 出向のおかげで様々な看板工事業者の方と知り合い、自社の良いところ、悪いところを客観的にみられるようになり、今の会社の運営にも大きな影響を与えていると思います。その会社には4年間お世話になったのですが、その間に父の会社には弟が入社し、共栄工芸は有限会社新栄に社名変更し、更に、場所も大阪府豊中市から大阪府箕面市へ移転しているという、なかなかの変革の4年間でした。
 出向を終えて戻った私はというと、元々1年しかいなった会社ですから、また一からの下働きということで、今でこそ言えますが本当に大変でした。しかし、広くネットワークを作らせていただいたおかげで、その後の社会問題になったコンプライアンスへの対応も広く情報を集め迅速に対応できたことなど、今となっては感謝の言葉しかありません。
 さて、ちょうど会社に戻ったころは銀行が合併・統合をする関係の仕事が多く昼夜関係なく仕事をしていました。朝から、現場へ行き足場を組み看板を設置して、帰社後には次の現場の看板を製作して、夜に見積り・材料発注とよくある看板屋さんの風景かと思います。今ではブラック企業なんて言葉もあるので難しいかもしれませんが、「苦労は買ってでもせよ」という言葉のように、当時の経験は今も私の基礎の部分であります。
 入社して10年が過ぎるころから、私は営業の部分に力を入れ、それとともに関西ネオン組合に参加させていただきました。今では、得た知識を会社にフィードバックすることで、風通しの良い職場づくりにも努めています。また、これまでもそうだったように、これからも常に世間、クライアント、社員の求めるものは変化し続けると思います、組合活動を通じてこれからも、情報を先取りして乗り遅れることの無いように対応し続けたいと思います。
 今から6年前の40歳の時に代表取締役に就任させていただきましたが、思うことは、本当に多くの方から指導していただき、成長させていただき、今があるということです。今でも、会社の先輩、業界の先輩とかかわるたびに自分はまだまだであると感じる事ばかりです。
 現在は、関西ネオン組合や地域の団体など、多くの団体で活動し周囲の皆様から学び、少しでも恩返しできるように頑張っています。
 変化の速い時代だからこそ、日本サイン協会や関西支部などから、多くの学びを得ることで、これからも業界の発展のために、社業を通じて貢献できるようにがんばってまいりたいと思います。



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