サイン屋稼業奮戦記

 Vol.154
三代目経営者としての覚悟
    関東甲信越北陸支部 鳴和プラスチック(株) 岡谷勝史

岡谷勝史さんきっかけ
 私の祖父は、大阪への丁稚奉公に出て、商売とものづくりの技術を学び金沢へ戻ってきました。そして、岡谷板金を立ち上げてブリキでバケツを製作していたそうです。その製作数は、月産3000個を超え北陸随一を誇っていたそうです。手先が器用な祖父は、職人さんたちに作り方を教えていましたが、なかなか上達しない人には『なんでこんな簡単なもんが出来んのや、こうやってやるんや』と工具を取り上げて実践して見せていたそうです。結構な短気だったと思います(笑)。
 そして、昭和30年代に入るとプラスチックという素材が世に出てきて、これからは、ブリキではなくプラスチックの時代やなということで、現在の会社である鳴和プラスチック(株)を立ち上げました。
 私が物心ついた時には、父も営業として働いていたので、自分も大人になればこの会社に入って働くのだろうと自然と考えていました。しかし、祖父は当時高校生だった自分に『おまえは公務員にでもなれんかなぁ』とボソッと言ったのを鮮明に覚えています。その時は、自分の会社があるのに継いで欲しいって思わないんか!?と不思議に思いましたが、後に考えると社長として会社を経営してきた苦労というものを、孫の自分には背負わせたくないと考えていたのかもしれません。民間企業よりも安定している公務員にさせたかったのだと思います。
 大学を卒業し、営業の修業をしようと大阪の広告代理店で3年働かせてもらいました。屋外広告も扱えるということで入社しましたが、各種メディアの掲載のほかにイベント事業やノベルティグッズの製作など幅広い経験が出来たのはよかったですし、何より値切りの街大阪でもまれた経験は、すごく役立っています(笑)。そんな折に、母親からの『そろそろ帰ってこんか?』との一本の電話で3カ月後には実家に帰り、現在の会社への入社へとなりました。

苦労談
 入社して5年が経過したころ、知り合いから経営者や後継者のために勉強する会があるから入らないかと誘われました。その時は仕事も忙しく、勉強などしなくてもこなしていけば何とでもなると考えていました。熱心に何度も何度も声をかけてもらうので、根負けして入会しました。
 それから3年経った当時35歳の私に突如社長交代の話が持ち上がりました。父は私が学生時代に他界していたので、専務として働いてくれていた方が繋ぎで社長をしてもらってました。そんなに負担ばかりかけられないという思いで、交代しましたが、その年にリーマンショックが起こったのです。どこに営業に行こうが、何をしようが全く売り上げの立たない日々が続きました。社員のみんなには迷惑をかけましたが、平日でも休みを取ってもらうなど苦肉の策でしのぐしかなかったのです。
 結局、その年の決算は前年対比6割減の売上げしかならなかったのです。一気に債務超過の状態になりました。経営者としての勉強など必要ないという甘い考えは吹き飛んでいました。自分は経営者としては失格だなと考えていました。リーマンショックという世界的な大恐慌で外部環境といえども、社員やそのご家族を不安にさせてしまったことには違いないのですから。せめて社員さんに不安を抱かせない経営体質を作り出していかないとダメだと思うようになりました。そこで経営者の勉強する会で学んだ、経営指針(理念・方針・計画)を作っていたので自社の存在意義や事業領域、外部環境や内部環境を分析して強みや弱みを把握して、翌期より経費削減はもちろんのこと、自社に利益が残る仕組みに切り替えていきました。できる限り外注をやめて内製化を進めていきました。翌期には黒字化、翌々期には大幅な利益を上げるほどに変わって行けたのです。弊社にとってリーマンショックというピンチを利益構造改革を行うチャンスにしていけたのは、知り合いが誘ってくれた経営者の会のおかげだと感謝しています。

思い出深い仕事
 前述の通り大阪で営業をしていましたので、入社して初めて自分でいただいた仕事が印象に残ってますね。と言うのはありがたいことに仕事くださいと言う営業よりかは、お客さんからのご依頼がありそれに対応する営業の方が多かったからです。飛び込みに近いような形で営業して獲得した、大成建設JVの社会福祉法人の障害者福祉施設内部サインでした。スーパーゼネコンと呼ばれる会社の仕事は珍しかったので、社長にも見積もりのグロス・ネットはお伺いを立てて、デザインは先輩社員が福祉施設に合うように木調で優しく当たるようにとか、製作は職人さんが触ってもケガをしないように面取りをしてとかを考え、施工は取り付けるに当たって干渉するものが無いかなど確認することなどを教えてもらいました。
 自分にとっては初めての大きな現場だったので、不安になることの方が大きかったですが、やり終えた時の充実感とこれからの自信につながった建設現場の一つになったことは間違いないと思ってます。どんなに不安になっても、たまにはお叱りを受けて現場事務所に行くこともありますが、『命まで取られることはない(笑)』と楽観的まではいかないが精神的負担を減らすように心がけています。

巡り合った人たち
 弊社は県内の組合には所属していましたが、同業他社さんとの繋がりは薄かったような気がします。入社して数年後、組合の総会に参加した折に青年部へのお誘いを受けて入会しました。メーカーなどへの工場見学や企業訪問を始め、花見やボウリング大会などのリクリエーションで交流を深めることができました。
 そんな折、全国の組合の会長を石川県の方が受けることになりまして、自ずと青年部も全国組織に仲間入りすることになったのです。仲間入りといっても当時は形だけで、総会のみの出席などにとどまっていました。それから青年部長も3人代わり、私が部長のお役を受けることになり全国との交流が始まりました。もちろん北陸は後発なので、関東を始め関西、東北、中国、九州の同業者、それも勢いのある方々が地区の代表として出てきているので、多大な刺激を受けたのは事実ですし、この熱を地元石川のメンバーにも届けたい感情も同様に湧き上がりました。そして全国に出て行くのに、理解して行動をともにしてきたのが(株)宝来社石川の山田社長でした。
 山田社長には日本サイン協会、関東ネオン業協同組合にも誘ってもらい、青年部の活動にも共に参加してきました。ネオンに関しては扱い量もそれほど多いわけではありませんが、アオイネオンさんへの見学などは製作過程など、とても刺激になりましたし、社内の仕事への姿勢なども参考になりました。
 今、日広青連と日本サイン協会が共同で点検技能講習会の運営や更新講習などの準備などを行なっています。全国の同業者のメンバーが、日本のサイン業界をリードし支えている自覚と自負を持っていると確信し、今後も共に進んでいきたいと強く思います。



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