サイン屋稼業奮戦記

 Vol.158
安全は信頼を築くと信じて
    関東甲信越北陸支部 (株)東京システック 代表取締役 小野利器

小野利器さん  弊社は昭和30年に私の祖父が興した看板屋であり、今年で創業67周年を迎える予定です。二代目の父は5年前に77歳にして他界しましたが、急な病で悔いを残したとはいえ、協会の皆様に本当にお世話になったお陰で充実した人生を過ごすことができた様子でした。
 祖父の時代は会社経営を軌道に乗せることに手一杯でしたが、当時協会の諸先輩方に助けられたことも多く、自分に代わり協会への恩返しを父に託したと聞いています。父はその言葉通り協会活動に携わり、特に物書きが好きだったためにネオスの発行には力を注いでおりました。その熱心さは、ときにネオスを私物化しているのでは?と思われるほどでした。父がネオン屋稼業奮戦記に寄稿した2006年には、なんと4回にもわたって自分のことを延々と発表していたことにはさすがに呆れてしまいます。しかし今思いますと、これら多くの手記は東京システックの歴史教科書となり、私にとっての経営本としても大変貴重な資料であります。
 それに比べ、私はこの業界に入って20年ですが、社長を継いでまだ9年、この歴で堂々と奮戦記などと称せるわけもなく、皆様の参考にも、私自身の集大成にもならないので、つまらないことを書き散らすことになりますがどうかお許しください。
 私は生まれも育ちも埼玉県で、今年50歳を無事に迎えることができました。幼い頃から手先の器用さには自信があり、小学校では書道や図工で年がら年中表彰台に上っていました。しかし輝かしい時代はここまでで、その後はパッとしない青春時代でした。自宅は祖父母の家とは塀とドアを挟んだ隣同士でしたが、ほとんど行き来しませんでした。祖父は私が幼い頃には会社を引退していて、見た目は普通のおじいさん、会えば戦争の話ばかり聞かされていました。
 父は毎週日曜日の午前中に決まって祖父と話込んでいましたが、きっと会社の定期報告をしていたのでしょう。父は家で仕事のことは一切話さず、しかも自宅と会社が離れていたため、私は大人になるまでうちの稼業が一体何なのかを全く知らないで過ごしていました。
 高校大学と、父の勧めもあって建築系へ進みましたが、就職ではなかなか苦労しました。住宅メーカーや設計事務所の面接でことごとく落ち、何故か最後に滑り込めたのが丸善という大企業でした。丸善といえば有名な老舗書店であり商社でもありましたが、私にとっては知らない会社であり、ましてや本など全く興味がありませんでした。こんな常識のない私でしたが、とにかく運よく就職は出来て一安心し、そこで書店を開業する人向けに本棚を売る部署の営業を数年間担当しました。やがて丸善の顧客であった某古本チェーン店がどんどん大きくなり、専属の店舗開発スタッフが必要ということで、二社の合弁会社へ転籍することに自然となりました。
 その会社の店舗設計チームで、私は居抜き物件を次々と古本屋に改装する仕事を夢中でこなしていきました。次々に舞い込む空テナント現場へと向かい、素早く内外を採寸し、棚のレイアウトと外装や看板の図面を仕上げる日々でした。当時の古本チェーン店は目立ってなんぼの世界でしたから、「本、CD、お売りください」の連呼状態、大小たくさんの看板をこれでもか!とつけていました。当時まだ景観条例や申請が今ほど厳しくなく、違法なことも度々知らずにやっていたと思います。役所から、やれ面積オーバーだ、色が派手だと施工後に言われては、隣の店はどうなんだ!と証拠写真を手に喧嘩腰で争ったものです。どうにも折り合いがつかず、大きな塔屋看板の半分を白塗りした失敗もありました。とにかく立場は看板屋とは違いましたから、店舗経営者側の論理で好き放題やっておりました。それでも看板による事故だけは一度も起こしたことはありませんでした。
 そんな油の乗りきった働き盛りの私がちょうど30歳を迎えた年、父からにわかに会社へ来ないかと話がありました。来ないかと言われても、東京システックのことは何も知らないし、母親も経営者は苦労するからと反対してるしで、最初は渋ってました。しばらく文通での説得が続き、「俺も30歳で会社に入ったのだから、お前もそうしろ」という妙な一言をあっさりと受け入れ、当時の職場を退職しました。自分は長男で下は妹だけなので、自分が会社を継ぐことが自然の流れであり、迷いや抵抗は時間の無駄だと悟ったのです。
 さて、前職で多少看板を見てきたとはいえ、右も左も分からない状態からの東京システック人生が始まりました。入社当時は某銀行同士の合併の仕事に全社的に取り組んでいる最中で、社内は活気に満ちていました。社員が順番で海外視察旅行へ行かせてもらったり、儲けが出た年は海外へ社員旅行に行ったりと、バブルは弾けていたとはいえ、看板は世の中から無くならないものだから安心だと言われていた時代でした。そこで私は図面を描くことから始め、次いで営業部で現場を含めた仕事全般を経験させてもらいました。
 入社から20年が経ち、世の中はだいぶ様変わりし、昨今はコロナや戦争やで日本全体が元気ないことを憂いています。看板や広告は経済活動のバロメーターのような面がありますから、早く元気を取り戻すことを願うばかりです。
 幸いにも、当社は古くからお付き合いいただいているお客様のお陰で、なんとか順調に経営ができております。もちろん、そのお客様との関係を築いた先輩社員、その関係をしっかり守ってくれている現役の社員の皆さんのお陰は大いに感じており、私などはほぼ役に立っておりません。 
 ただ、私が常日頃から何万回も社員の皆さんに繰り返し言い続けていることは安全第一≠ナあり、これこそが信頼を築くうえで最も重要な価値だと信じています。企業としては当たり前のことですが、これがなかなか難しいと感じています。昔は一つ二つの事故ならば謝罪をしてまるく納めていただいていたことが、いまは軽微な事故でも一発退場の可能性をはらむ時代です。創業当時からの社是である「愛情で育てよう作品は、自分の店に掲げるつもりで」には、お客様の立場にたつことを大切にするという思いが込められていますが、事故によってお客様の看板(ブランド)に傷をつけないというミッションも、私は込めています。
 経営者としてはまだ道半ばですので、稼業の奮戦につきましては今回割愛いたしました。この次に書かせていただく機会があれば、これから先の未来に起こることも含めて奮戦の模様を余すことなくお伝えしたいと思います。
 今後とも、(株)東京システックをよろしくお願いいたします。



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