Vol.37
 私のネオン屋稼業奮戦記 
    思い出すままに   四国支部  (株)香川ネオン松山電業社  高山昌太
清水忠務さん <ネオンとの出会い>

 私が初めてネオンに出会ったのは、今からちょうど50年前、まだ14歳の小僧の頃でした。2月の寒い日、銭湯の帰りにたまたま目についた電気工事店の「見習い募集」の張り紙がきっかけでした。

 当時の私は戦後すぐ父を亡くして家族が生活していくために、学校にも行かず日々の生活に一生懸命な時でしたので、その張り紙を見てすぐに訪ねました。すると「明日からでも仕事に来なさい」と言われ、さっそく翌日から勤めはじめたのを覚えています。

 その会社は、本来は電気工事店だったのですが、たまたまタクシー会社のネオン看板を請け負ったのが、ネオン看板と取り組むきっかけでした。今から思えば、直管のネオン管を組み合わせて「タクシー」の文字を作り上げただけの何の工夫もない簡単なネオン看板でしたが、昼間はただ透明のガラス管にネオン管をしぼっていただけのものが、夜になって点灯した時に、グリーンの色のついた光が輝いた時には、子供心に強い印象が残り、ネオンの魅力にとりつかれていきました。

 当時のネオンといえば、アングルで枠を組み、その枠に透明のガラス管を自分で作ったスプリングで留めて、ネオン管を取り付けていました。

 それと思い出すのは、出張仕事の場合、ネオン管を何段も重ねて縛ったものを両手に抱えたままでバスや電車に乗って現場に運ばなければなりませんでした。まだまだ車はほとんど見なかった時代ですから、それはそれは大変厳しく過酷な重労働でした。時には、つまずいて転んで、そっくりネオン管を割ってしまったことも何度かあります。それでも少しずつ慣れてくると、ネオン管を電車やバスの網棚に、うまく割れないように置くことができるようになるものでした。

 そのような苦労があったので、子供心に「割れないネオン管はつくれないものだろうか」と、真剣に考えたこともありました。  その後仕事の量も増え、工事もネオン塔など大型化して順調にきましたが、時には残念で悔しい思いも何度か経験しました。

<オイルショックの頃>

 オイルショックの年、大型ネオン塔を2基同時に完成させました。しかし、オイルショックのために、一度も点灯できず、結局、試験点灯をしただけで一度も点灯することがありませんでした。その上、数年後にはネオン関係は撤去してチャンネル文字広告塔に変わり、ずいぶん無駄なことをするものだなと思いながら、また半面、悔しい思いをしました。

<バブル景気の頃>

 その後、私としては、決して早いとは言えない独立をした後に、それと合わすようにバブル景気を迎えました。

 広告代理店より、ある会社のCIサインの四国地区の制作依頼を受けた時のことです。他の地区の制作が遅れ、「四国地区の制作分を他の地区に分配して欲しい」と言われ、北は栃木県から南は沖縄県まで、5mの袖看板を制作しました。出来上がった看板は、大型トラックに1基ずつ積み込んで納品するのですが、その時は、毎日毎日、組み立てが終わるのを今か今かとトラックが工場で待機しているほどの忙しさでした。

 平成3年12月には、1店舗ネオン管使用数が1000〜3000mぐらいのパチンコ店を7店舗完成させましたが、その時が最高に忙しいときでした。

 今思えば、あの時どんなにしてあれだけの仕事を完成させたのか思い出せないほど忙しく、自分でもよくあれだけの仕事をこなしたと感心します。

 それを最後にバブル景気ははじけ、それからは毎年、坂道をゆっくりと下るように、今では全盛期の2分の1くらいに売り上げも落ち着き、今まで職人として考えられなかった週休2日を楽しんでおります。この道一筋、自分の天職にめぐり合えたことに感謝しています。

 思い出すままに、私が職人としてネオンサインに出会ってからの50年間を、とりとめもなく簡単に振り返ってみました。

 間もなく21世紀を迎えようとしている今、世の中の枠組みが大きく変わろうとしています。ネオン業界でも、ネオン管に変わる新素材の登場など、新しい流れが押し寄せてきています。しかし、こうした状況の中でも、私はいまだにネオン管にまさる光を出す素材はないと確信しております。

 時代が平和である限り、ネオンの光は永遠に輝き続けるでしょう。

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