私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.40
 社員に、師匠に、そしてお客様に感謝  
     関東甲信越支部 阿部電材株式会社 阿部正明さん

阿部正明さん すべてに勉強の場を与えてくれた師匠に感謝

 福島県の北東部に位置する阿武隈山系の山村から、昭和35年春に上京して40年も過ぎ去りました。当初、人々の行き来の多い都会生活の一つ一つに驚きでした。路面電車(都電)がいくつものコースを走り巡り、またトロリーバスを見ることも初めてでした。  私の就職先は、電気工事材料販売・問屋さんの木村電気さんからの出発です。何の特技もない私のような者がこの欄を使わさせて頂きますことは、マトはずれに思いますが、依頼を戴きましたのでお許しを頂きます。

 まず最初にいただいた職場の任務は、商品の管理(倉庫からの出し入れ)でした。毎日のように愛知県瀬戸市、福島県会津本郷からの碍子類が入荷します。台車、またはかついで所定の位置へ整理整頓です。当時は梱包材として、段ボールケースより未だ木箱や、わらの俵を使用しての梱包も多くあり、一日の商品出し入れが済み清掃を終える頃は鼻がまっ黒になることもしばしばありました。次には配送業務、碍子類のケース、または俵の重さは30L以上のものが多くかなりの重労働です。新築ビルの受電設備の電気室は大抵地下2〜3階が多く、碍子類もかつぎこむ場所はまだ仮設の照明と工事中の足場の悪さに難儀なところが多かった。ネオン工事用碍子類は、当然広告塔工事をしているビルの屋上へ。未だ高所作業車がそんなに普及していなかったことと、碍子類は別に搬入することが多かった。

 昭和30〜40年代は、銀座を中心として繁華街にある建物には大型ネオンの新設が華やかでした。ビルのエレベーターを利用し、さらに1〜2階上って屋上へ、広告塔では電工さんが目下作業中、ここで一声かけて材料の引き渡し完了。最近はレッカー作業時に一括で荷揚げをしていただきますので助かります。

 また営業面となりますと木村社長は、積極的な行動をとても喜んでくれました。東京以北の主な都市にはネオン工事業者が各地に点在しておりますので、車で巡ることにしていました。東北一周二千キロ何回も走りました。土地の方の人情あふれる温かい歓待をうけたことも多く、お得意様に感謝している次第です。

 また社交面においては、「酒も飲み、唄の一つも歌えないとだめだ」とも教えられました。まだ今のようなカラオケの時代ではありません。昭和40年代には関東ネオン組合の総会は熱海の温泉ホテルにて開催が慣例となっておりました。当時のお歴々は個性派が多く、さすが余興も多士済々でした。廣邊泰蔵氏(現廣邊会長のお父様)の日本舞踊「黒田節」や木村社長(私の育ての父といわせて頂きます)の三味の音にのせた「さのさ」や「どとえつ」など、味のある豊かな宴が社交の雰囲気を高揚させたと記憶して、懐かしく思いおこせます。

 独立の頃

 しかしながらある転機が訪れて、昭和47年10月に退職させていただき、11月より自営することになりました。間もない翌昭和48年になりますと石油危機が叫ばれて、物不足現象がおこり資材の電線類が大変不足をいたしました。時に需要の多かったFケーブルが不足、価格が高騰しました。幸いにして僅かながら一週間に20巻程度の品物は入荷していましたので、苦労しながらもやりくりは出来ました。また、騒動も比較的短期間に収まりましたことと、スタッフ2人でのスタートで、経費も少なく済みましたので乗り越えることが出来ました。

 恵まれたパートナー、お得意さまに感謝

 オイルショックも過ぎ去り、以来社員に恵まれ、景気拡大の歳月にも繋がり順調に推移出来ました。このことは人と人とのつながりを大切にすることが原点と考えておりました。

 業界の組合活動も活発に推進され、新しい時代に即応し、前進されますことに敬意を申し上げます。およそ20年になりましたが、いくつかの活動に参加、お手伝いをさせて頂きましたが、今年二千年を節目に身勝手ではございましたが、降りさせて頂きました。IT革命によってさまざまに変革していく中、人々だけが持ち合わす社会の価値観をもう一度見据え、初心を忘れず原点に立って、21世紀のスタートにしたいと考えております。  とりとめのない文にお許しを頂き、文字通り世紀末節目に、NEOS誌面に出会えましたことは光栄であり、この場を提供下さいましたことに感謝申し上げます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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