私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.45
 業界の分母を担う心構えで奉職 ネオンアート展入選で天職自覚  
     中国支部 山陽ネオン(株)菊波 勇

  私が現在の広島クロード株式会社へ就職したのは、終戦後7年が経過し、やっと世の中が落ち着いた頃でございました。

 当時はまだ広島クロード株式会社の前身である朝日電気株式会社でございましたが、ネオントランスも大量に製造しておりました。私は弱電が好きで、トランス製作に魅力を感じて入社致しました。ところがネオンの知識のあまりない私にとりましては、入社致しましてから見るもの聞く話しが全て目新しく、色々な職種があることに驚きました。中でも特にネオンチューブの製作に興味を持ちました。その工房では一日中バーナーが燃え盛り、寸暇を惜しんで先輩達が働いていました。それに憧れたのが、この道へ進んだ第一歩でございます。

  以来、考えてもみなかった猛特訓が始まりました。来る日も来る日も徹夜まがいの挑戦が続きました。最初に製品として認めて頂いた真っ赤なネオン、私のこの手で作りました最初の製品に衝撃的感動を覚えたものでございます。

 入社後14年間が、あっと言う間に過ぎ、志あって独立させて貰うことになりました。工場を建てる馬力などとてもありません。自宅の一階を改造し事にあたりました。でも設備だけは当時最新式の《ヒックマン空冷式》なる機械を設備しました。誠心誠意をモットーに、長年培った技術で業界に奉仕し、お客様へ少しでも優れた製品をお届けするしかないと、心に決め頑張ることにしました。

 資本金も得意先もなかった私でございました。それにまして経営理念とか、損益分岐点なる言葉すら知らず、営業の勉強もしていなかったもので、それはもう、無謀運転極まりない状態であったに違いありません。
広島は、原爆で焼野原となった事は周知のとおりでございますが、その復興ぶりは目覚ましく、ネオンの需要も次第に延び、一息つけるようになりやっとのことで法人にすることも出来ました。それも時代の波に助けられたばかりでなく、多くの人に支えられ業界の恩恵に浴したからこそ今があると感謝しております。

  私達ネオンチューブ製造業は、この業界の分母(底辺)を担うものと思っております。その分母がイマイチですと、如何に優れた作品が出来ても台無しになってしまいます。やっている仕事は小さいものですが、責任は重大で何時も精魂こめて仕事をしております。
それに致しましても最近は不景気で、仕事量は当然減り続けております。困ったものでございます。

 そんな今日、私の生涯を記念すべき朗報が舞い込んで参りました。《ネオンアート展佳作入選》でございます。色彩の変化で四季のうつろいを表現致しました。
 題しまして《赤富士の四季》。
 賞まで頂きまして有り難うございました。

  まさかの受賞でございます。その実感が湧いてまいりましたのは、作品が送り戻され、改めて点灯してみてからでございます。
“ネオン稼業の苦しみも喜びも”、を縮図にした作品に思え、眺めながらにしてわが天職はネオンなりと、気付かせて頂いた思いです。
 幸い、息子が後継ぎを志しております。これから先、業界の役に立つかどうか定かではありませんが、親子共々、ただひたすらにネオンチューブ製作に励む心積もりでおります。

 今後ともご指導、ご鞭撻よろしくお願い致します。

 

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