私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.45
 丁稚奉公から叩き上げで築いた今日ハガキ1枚・・・に発奮で天職自覚  
     関西支部・サインテック(株)石川博美

石川 博美    父は岡山で10数名の職人さんを使い、履物製造業を営んでおりました。
履物といっても今では殆ど使われなくなった桐下駄です。
桐の原木の仕入れに木材市場に連れて行ってくれたり、大阪の得意先にも時々一緒に行きました。当時(昭和20年代)はまだ桐下駄の需要も多く、家計もかなり豊かであったように思います。

 私が小学校4年生の時、父は病に倒れ、5年生の夏他界しました。
父の亡き後、暫く営業は続きましたが、職人さんも一人二人と辞めていき、結局皆去っていったあと、商品の履物の在庫がかなりありましたので、他からサンダル等も仕入れて履物の店を自宅を改造して始めました。
市内中心部でしたが店で売れるだけの収入では日々の生活も厳しく、中学校迄で進学を諦め働くことにしました。

 学校に求人依頼があった会社の中にネオンサイン業があり、電気に興味があったので行くことにしました。小学校高学年よりラジコンの飛行機を作ったり、少し年配の方ならご存知の鉱石ラジオを組み立てたり、物を集めて作ることが好きだったので、ネオンサインの製作という仕事に興味をもったということです。
 昭和31年に中学を卒業しまして大阪のあるネオン会社に就職しました。入社してみればネオン会社というより看板屋で、ネオンの仕事は10%位の所でした。
倉庫の片隅には明治創業の店らしく、最近迄使っていたという白く塗装を施した大八車が置いてあり、納品に来た材木屋が本物の馬に引かせた馬車に角材を満載にして来たのにはびっくりしました。

 会社は大阪市内中心部にあり、近くの横堀という地名の場所は当時材木屋が軒を連ねていて、その内の数軒がまだ馬車を使っていました。
学校への求人資料では土・日休みと聞いていて、さすがにネオンサイン業という地方にはあまり無い業種は進んでいるなあ、と思っていたのですが就業し、いざスタートしてみれば土・日休みどころか、知る人ぞ知る丁稚の世界でした。
住居は倉庫の2階の薄暗い5人部屋で初任給3000円、先輩の指導で朝5時起きでまず同じ敷地内にある社長宅の風呂掃除、庭の掃除、終わって家でも食べたことのない麦御飯ときゅうり入りの味噌汁、漬物の朝食。
7時過ぎに工場のシャッターを開け清掃、仕事は工場内で看板の木枠組の手伝い、午後3時頃になると社長宅の夕食材を買いに、近くの市場に行く。
仕事の途中には社長の息子さんの自転車の練習相手で前の道路を何10往復も行ったり戻ったり、社長家族の呼称も今ではドラマの世界です。
社長→旦はん、社長夫人→ご寮はん、社長の母→お家はん、長男→大ぼんさん、次男→中ぼんさん、三男→小ぼんさん、長女→とうはんという具合で最初社長と呼んでお家はんに(社長の母)「旦はんと呼びなはれ!」とえらい怒られました。

 これだけ厳しい中で辛抱出来たのは、お家はんの口ぐせで、「あんたみたいなのはハガキ1枚でなんぼでも来る」とたびたび言われ、私も多感な年頃でよく反発したり態度が悪かったようですが、その「ハガキ1枚で・・・」という言葉が常に頭の中に残り、「よーし俺がこの会社に本当に必要になった時に辞めてやる」と思うようになりました。
親父譲りかもしれませんが、自分では人に使われるのが合わないようでした。
少し学年遅れで商業高校の通信教育を受け始めたのもいずれ独立しようと思っていたからです。
 3年位経ち、やっと後輩が数名になり社長宅の雑用も後輩にバトンタッチしました。
その頃より私のやりたかった(やってみたかった)ネオンの仕事も段々増えてきて、ある時突き出しネオン看板を四国徳島に設置という仕事が決まり、今でしたらメンテナンスのこともあり、地元の業者さんにお願いするか、明石海峡大橋を利用すれば難なく行ける所ですが、看板を運送屋で送り先輩と二人で大きなリュックサックに大型ドリルを始め諸工具、材料を詰め込み船で四国へ渡り列車、バスを乗り継いで現場へ着き、近くの農家で丸太組の梯子を借りて取り付けました。
今風で言えば大アナログですね。
 また、大阪市内でも当時ビルといえば3〜5階建てが殆んどで、10階建以上の建物は僅かしかありませんでしたが、その10階建屋上の新設工事でも、今のようにレッカー車等使わず動力ウインチでの荷揚げでした。
3〜5階建位までは、ロープにW滑車で何人もぶらさがって人力での荷上げを丸一日かかってよくやりました。レッカー車を使用すれば楽に2、3時間で済むものを、当時はレッカー車より人件費の方が安かったのです。

 20歳になったばかりの時、勤めていた会社の後継ぎの長男が学校を卒業し、東京のあるネオン屋さんに修業に行くことになり、2人で目黒区祐天寺の民家の2階に間借りして暫くあちこち現場に出ましたが、半年位でその長男が体調をくずして1年間位のつもりが早々と帰阪しました。
その後寮を出てアパートで一人住まいを始めまして、23歳になった頃より仕事の役が外回りの営業、現場の打ち合わせ等になりました。
 一応現場もかなりこなしてきて仕事も面白いと感じるようになった頃、会社の都合もあったが、丁度10年勤めて退社し、独立しました。昭和41年4月です。
創業時のメンバーは私と中国電力(岡山)に勤めていた弟とその友人の電工、それに2年程ネオン工事の経験のある青年で、ネオン工事の下請けもしておりましたが、折からの建築住宅建設ラッシュで知人の紹介で注文建売住宅専門で電気工事をかなり施工しました。弟とその友人はそれが本業だったんです。

 その後以前勤めていた時の外注先の鉄工所がトラックを買い替えるというので、そのトラックを分割払いで譲り受け、いよいよネオンを主とした下請専門工事業者としてスタートしました。
それを期に下請で工事を専門にということで昭和42年1月、豊中電装工事有限会社を立ち上げました。人数も職業訓練校電気科を出た者等5名になっていました。

 その年の晩秋、当時業界でベスト10に入っていた本社東京の総合広告代理店の大阪支社と取り引きが始まり、支社長となぜか気が合い、以後近畿一円、四国、中国地方の前記広告代理店の大阪支社エリアの仕事がかなり入ってきました。
銀行、証券、損保、音響光学その他数多くのまとまった仕事をさせて頂きましたが、それまでは業者の下での仕事で現場での作業ばかりでしたが、代理店の仕事は現地での諸々の調整、工作物、広告物等役所への申請すべてこちらでやらなければならず、止むに止まれず某大手ゼネコン系列の会社で設計部におりました末弟を引き込みました。
これでほぼネオンサイン、屋外広告全般設計、施工の体制がとれましたが、代表である私の経験がわずか10年。他社を全く知らないので作業の段取り、特により良い施工方法を知りたいと思っていたところに、チャンスが来たのです。
現在は行っていませんが大阪市消防局が毎年、梅雨前の5〜6月頃に市内のネオンサイン(主にネオン広告塔)の立ち入り検査をしていまして、協力して欲しいということで、2年位数10カ所の他社施工の物件をメガー測定等の手伝いをしながら見て回れたことです。大変良い仕事をしている所もあれば、I.V電線を束ねてそのまま鉄骨にくくりつけたひどいものもありまして、大変勉強になりました。

 その後徐々に得意先も増え、売り上げも元請80%、下請20%の割合で気の合う協力会社、また同業者の皆様に支えられ、まもなく創業36年になります。
 後継ぎも28歳の次男坊が頑張っていますが、経験が5年程と浅く、まだまだ当方現役で頑張らなくてはと思っております。
多くの良い得意先に恵まれてはおりますが、ご同業諸氏には今後親子共々ご指導方よろしくお願い申し上げます。

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