私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.47
 ―ネオン工事を天職として―  
     北陸支部 富山ネオン(株)水口清範

水口氏  私は今まで、ネオン工事また電気工事関係の仕事しかした事がない。

 何度か辞めようかと悩んだこともあったが、それでも今まで来たのはやはり母そして家族のお陰である。

 私は高校では機械科の生徒であったが、施盤、フライス盤等の機械を動かすのは下手で自分にはむいていないとすぐにわかった。おのずとそれが嫌で2年生の時、学校を辞めると言って母を困らせたのである。母は、父親のいない子はわがままだと言って他人に笑われるから卒業だけはしてくれと言って頼んだので、しかたなく学校へ行っていた。そんな状態だから卒業の時期にきても、友はみんな就職先が決まっていったが、自分には合いそうな仕事が無いとあきらめていて探す気持ちになれなかった。担任の先生は大変に心配をしてくれたが、私は就職先の決まらないまま卒業したのである。

 友は時期が来たら胸を張って仕事に行ったが、私は行くところがないから図書館に行って本を読んだり、映画を観たりしていた。また富山にきた野球選手の長嶋や王のホームランも見た。相撲の大鵬、柏戸も見た。母もなけなしの小遣いをくれたがそのころは、兄姉妹みんな働いていたので家に来たときには自分の事を思ってか必ずお金をくれた。働きもせず今では考えられぬほどリッチな生活をしていたのである。それでも家族は、この子には必ず合う仕事があると言って暖かく見守ってくれた。

 そんな折、父方の遠い親戚の親方が父の墓参りに来た。遊んでいる私を見て、電気工事の仕事をしないかと誘ってくれた。ガンマンスタイルかそれも悪くはないと思い、軽く返事をした。親方には条件があった。3年間は里心がつくから絶対に家には帰さない、それでも良いかとのことであった。家族の者は、母恋しのお前には絶対に勤まらないと言って反対したが、返事をした手前それが嫌とも言えず、私は電気工事士をめざし上京した。

 3年位ならと甘く見ていたが、実際に帰れないとなると重く重圧がのしかかりホームシックは加速した。それでもこれに負けじと必死になって耐えた。昼は仕事、夜は店番をしながら勉強をした。4年目にやっと念願の資格を取りふるさとに帰って来た。母は喜んでくれたが、私の心の中はなにかやり残してきたものがあるような気がしていた。まだ富山に落ち着くのは早い、母の心を無視して今度はシーケンス制御の勉強のため横浜へ行った。

 入社して驚いた。電気工事士の資格は何の役にも立たなかった。大きなダイカストの機械はすごい迫力で動いていた。今ならコンピュータで制御するだろうが、当時はシーケンス制御であった。心臓部の制御盤は部屋の壁くらいあり、リレー接触器が盤にぎっしりと並んでいた。その中の1つの接点がだめでも機械は止まる。その修理が仕事である。

 私の人生の中でもあの時は一番勉強したのではないかと思う。家に帰っても機械の動きを思い出し、図面と相対していた。なぜなら機械を少しでも止める時間を少なくする、その為にライバルに負けまいと“男”を競い合ったからである。これをマスターするのに4年間かかったが、これで電気工事士としてやっていける自信が出来たので帰県したのである。

 縁あって富山ネオンで仕事をする事になった。その時に感じたことは、仕事の量の多さである。前の会社では機械を少しでも止めないための知恵と工夫をして短縮をはかったが、その仕事が済めば別に本を読んでいようが遊んでいようが、上司に文句を言われることはなかったが、この会社では、1日にする仕事の多さに驚いた。それと仲間のタフなのにはあきれて、本当によく働く人たちと感心した。朝、家を出ると帰るのは、10時、11時はまだしも午前1時、2時なんて事もよくあった。それでも次の朝は当たり前に出てきて仕事をしていた。あまりの環境のちがいに当惑をし、3ヶ月もしないうちに辞めるといったが、社長に説得されまた勤めたくらいであった。
 そうしてまた数ヶ月したら今度はオイルショックが会社を直に襲った。半年前のあの忙しさがまるで夢かと思うくらいネオンの仕事が減った。電気節減のため広告塔の開閉器を切りに行く、それが仕事ととはいえ、あの時は本当につらかったものである。ネオン工事はあまりなかったが、そのかわり店舗の電気工事によく行った。この仕事は世の中の好景気、不景気をもろに受ける職業だと1年間で肌で感じた。

 バブルの最盛期にものすごい勢いで仕事をしたかとおもえば、今度はこの不景気の時代。ネオン工事を通じて高い波、低い波の世の中を見た。この仕事を天職と思い、この機会に、我を振り返ってみたら知らぬ間に30年目に入っていた。
 これまでやってこられたのも、社長をはじめとして、私を支えてくれた富山ネオンの仲間の暖かい心の賜と感謝をしております。

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