私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.48
 ―地上30m命がけの仕事で―  
     中部支部 杉山電業社 杉山勝人

杉山氏 私は電気屋二代目です。おやじから電気の仕事を教えてもらってもう56歳になりました。ネオンを知ったのは8歳くらいのことだと思います。ネオン管はよく壊れるものとおやじから教えてもらっていたので、ネオン管に触るのが非常に怖かったものです。
 電気学校を出てすぐ家業に就きました。現在はネオン工事はアイセイ社さんの下請けで仕事をさせていただいています。
 毎日アイセイ社さんへ行って仕事の打ち合わせをしています。主に名鉄、近鉄、最近は電話会社もあり、比較的大きい仕事が多いと思います。また修理もおおごとです。通常は二人で仕事をしているので、大きなネオン塔などはタラップで二人で運ばなければならないので大変ですが、スイッチはコードを使ってリモコンで操作しています。タラップのない所もありますので、自分でハシゴを上げて前側に丸太などで足場を作って、ハシゴをぶらさげて修理をします。その場合は非常に危険なので、脱落防止にオリローワイヤーなどを使っていますし、下部にはネットを使って物が落ちないように細心の注意を払っています。特に下に人が歩いている場合は、非常に危険なのでガードマンを配置して棚をつるなど注意して仕事をしています。常に30m位上のところで修理をしていますので、まあ私たちの仕事は命がけです。
 最近は小さいトランスのCRなどのネオン工事が多くなっています。以前はネオントランスをチャンネルの中に入れてよくパンクさせましたので、最近はなるべく外に出しています。大きなネオン塔などではアイセイ社さんに足場工事してもらっています。以前はネットは10cm角位の大きい枡でしたので、ドライバーなどを落としたら通過してしまいましたが、最近は網ネットになり安心です。
 また、私たちはネオン管(文字)は大切に木綿を敷いて木箱に入れて運びます。レッカーなどで上げてもらっていますが、ネオン屋だけの都合では上げてもらえないことがあるからです。エレベーターで上げる時は木綿を多く入れて、立てて運びます。最近はボーダーなどは段ボールに入れてもらっていますので、大変楽になりましたが、昔は木箱に入れて運びましたので、非常に重たかったのを覚えています。
 また、ネオンのサポート打ちなどは昔は穴を開けてからマイナスビスを打ってサポート碍子を取り付け、マイナスビスでドライバーでサポート硝子を留めたものですが、最近は楽になりました。電池ドライバーでプラスビスがすでにサポートに付いているのを穴を開けないで留めるので、非常に作業も早くなりました。
 また第一次オイルショックの時は国の方からネオンサインの点灯を止められましたので、私達の仕事が5年位なくなり非常に困り果てました。ネオンサイン仕事が無いので、電気工事をしましたがあまりお金にならなかったので、やはりネオンが良いと思いました。  これからもネオン工事を多くできる世の中になり、街を明るくしたいと思っています。

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