私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.50
     東北支部 昭和電装(株)田辺直毅さん

田辺直毅さん 昭和39年(1964年)、私が初めてこの業界に接した年でありました。学校を卒業、職に就いて四年目、26歳の時でした。長男として生まれ、親の年を考え、岡山生まれの父が戦後住みついた塩釜という地の親元に居りましたが、当時東京オリンピックに沸く関東、関西は景気が良かったのでしょうが、東北地方はその恩恵もなく働き手の多くがそれらの地方へ流失し、全く不景気に沈む淋しい所であったと記憶致しております。
 当時妻子を抱え失業給付金を受けながらの生活は肩身の狭いものであり、一度就職したら生涯会社に忠誠を尽くすという当時の風潮の中では奇異に映るのか求職作業も思うに任せず、世間の目もあり親も困っておったようであります。
 そんな訳で保険の給付日数も少なくなり就職も出来ずあせるばかりで前途暗澹たるものでした。追い詰められるように、遂に就職することを諦め自ら業を興すことを決意、取り敢えず新聞やチラシの広告取りをすることでスタートしたのです。来る日も来る日も歩き続け、慣れない営業に汗を流しましたが、一向に成果は上がらず幾夜涙を流したことか。 
 それでも時の経過と共に一軒一軒と使ってもらえるようになりました。客先との話もなんとか長い時間持たせることが出来、そんないろいろな話の中から看板やネオンの話に発展するようになり、興味と関心、そして冒険の不安を持って受注に手を出すことになりました。
 当然のことですが看板のかの字もネオンのネの字も知らない私は、引き受けてくれる業者探しからのスタートでした。
 何とか製品が出来上がったものの取り付けの段階でトラブルとなり、客と業者の双方から責められ集金と支払いの重責と苦労は筆舌につくしがたいものでした。まさに、“素人の悲しさ”を絵に描いたようなものでした。この苦労から逃れるには、客先の要望を直接聞く私自身が作る意外にその責任を果たす道はないだろうと考えるようになり、この考えが業界に入るきっかけとなったと思っております。
 そうは言っても素人には変わりありませんから、やり出しての苦労は骨身を削る日々でした。幸い受注も順調で仕事の度にいい勉強をさせていただきました。師を持たない私は「仕事に教わる」とは正にこのことだとつくづく思ったものでございます。この頃には何とか生きることに勇気を持てるのかなとも思えるようになっておりました。
 しかし、「所詮素人。今は人の真似をしているにすぎない。いつまでこの仕事をさせてもらえるのか、大きなトラブルが発生したらどうしたら良いのか、この業界に馴染めるのか、いつまでおいてもらえるのか」いろいろな不安が頭を離れませんでした。
 私自身、私の本当の職業は他にあるのではないか、天職は何なのか、そんな悩みの日々でありました。
 そうこうする内に電気工事二法(業法・工事士法の二法と記憶致しております)が、改正されることになり、ネオン工事も電気工事の登録業者でなければ出来ないという話を聞き、いよいよこの業界から追われる身となったのかと思ったものです。しかしこの一件で業界が全国的に組織化されることになり、私も東北支部の一員として発足に参加も致しました。また一念発起して、ネオンと電気の工事士に挑戦、何とか自前の登録業者となることが出来た訳で、大きな不安を奇貨としたことを大変うれしく思ったものでございます。
 その後、オイルショックやネオン工事士資格取得、バブル景気の崩壊など、業界の節目節目に立ち会っている中に、いつしか三十七、八年が過ぎてしまいました。天職を探し求める年齢もすでに通り過ぎ、後戻りの適わない年齢になっていることをつくづく思うこの頃です。
 今日まで全くの素人の私を受け入れ、ご指導いただき業者としてお付き合いくださった関係各位に深謝し、心から御礼申し上げ一文とさせていただきます。

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