私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.56
出会いを大切に曲げ一筋
     北陸支部 とよながネオン 豊永 公

豊永 公さん 高知の山の中で育った私は、父の友人で、大阪でネオン看板の会社の社長さんに「卒業したらうちの会社に来ないか」と誘われ、何もわからないまま大阪へ行きました。大阪は華やかで、街の賑わいやネオンのきらびやかさに圧倒され、とてもきれいだったのを今でもよく覚えています。そして昭和33年、同級生と2人でこのネオン看板の会社に入社したわけです。当時は自分がそのネオン看板に携わると思うと嬉しさで一杯でした。
 しかし仕事は本当に大変で、毎日毎日雑用ばかり。住み込みなので事務所の掃除からなんでもしました。早く仕事を覚えたくて師匠の仕事をよく見ていたものです。しかしまだまだ若く、なかなか教えてもらえませんでした。現場へ向かう時、人通りの多い道頓堀のまん中は昼中車両禁止のため、鳶職の人達と一緒に大八車で足場を積んでいくのが恥ずかしかったのを思い出します。
 前にも書いたことがありますが、ネオン管を曲げる様子を盗み見て、夜中にネオン管のクズで見よう見まねで練習をしたものです。
 入社して5年間は帰省せず「一人前になるまで」と我慢しました。しかし、まだ見習い中の昭和39年にその会社が突然倒産してしまいました。手広くやって仕事も順調のようにみえたのですが、これからどうしようかと思っていた時、以前会社にネオン曲げを習いに来られていた福井の看板屋の社長さんに「うちの会社に来ないか」と誘われ、福井に行くことになりました。まだ22歳で管曲げも不安な私のために、大阪の師匠がわざわざ出向いて設備をしてくださいました。その後は自分なりに工夫して頑張りました。
 そして縁があって誘ってくださった金沢、新潟と移り、また金沢へ戻りました。その間、オイルショックがあったり色々ありましたが、一人立ちしたらとのアドバイスもあり、昭和60年に独立して今があります。
 ご贔屓いただいているお客様には本当に有り難く思っております。ネオン管曲げの注文も重なったりすることもありますが、お客様の納期は絶対に守ることを原則に、なるべく現場に出向いて手がけたネオンサインの確認をしています。
 今はネオンも少なくなっていくのが淋しいかぎりですが、車で走っている時にネオンサインが見えると嬉しくなります。やっぱりネオンサインに勝るものはないと信じています。私一代で終わるかもしれないけれど、曲げ一筋にまだまだ頑張っていくつもりです。

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