私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.57
時代にあったネオンサイン需要の創出を
     中部支部 名古屋クロード(株) 岩井 章

岩井 章さん 皆様ほど経験のない私には、まだまだ奮戦記と呼べるほどのものはありませんが、この職業に就いてからの自分記をつたない文章ですが記してみます。
 電気工事の会社に勤めておりました私が、父親の勤務しております、名古屋クロードへ転職したのが昭和56年でした。初めは工場で製作を手伝いながら工事を担当しておりました。今思うと当時はオイルショックが一段落し、バブル景気に向かおうとしている所でした。
 ネオンサインの仕事も屋上広告塔が主で、一つの現場で数百台ものネオントランスを使用する物件が多かったように記憶します。
 思い出深い仕事は多々ありますが、中でも名古屋の商業ビルの全壁面に設置されたネオンの改修工事で、毎夜ゴンドラを使って作業をしたことがあるのですが、完全に夜昼逆転の生活を1ヵ月近くしました。
 週末ともなると、繁華街の事なので、下ではほろ酔い気分のサラリーマンや若者たちが騒いでいるのをゴンドラの中から眺めながら、随分と悔しい思いをしたものでした。
 工事を数年間担当した後営業職に移りましたが、やはりこの仕事の醍醐味は現場であり、完成時の感動は何時でも新鮮です。
 バブルの崩壊とともに、平成6年東京クロードも兼務するようになりました。
 東京へ来た当初は、屋上広告塔の量とスケールに随分驚きました。また地下鉄の路線の多さには、こんなに穴だらけで東京の地面は大丈夫なのかと、真剣に考えてしまう事もありました。
 現在ではビルの高層化により屋上媒体の価値も変化し、一方ではLEDやFFシートなどの新しい素材を使用し、内容においてはビジュアル重視で、短期的な宣伝効果を狙ったデザイン掲出手法が増えてきております。
 この様な傾向の中でネオンサインは減少しつつあり寂しい限りです。
 しかしユニークであり何処か人をほっとさせるネオンの光は、いつまでも人を魅了し続けることと思います。
 そのためにより一層奮戦努力して、時代にあったネオンサインの需要の創出と、後継の育成に勤めてゆきたいと思います。

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