私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.59
広い大地から屋上の人生に
     北海道支部 (株)タイセイデンコウ 安藤 興裕

安藤 興裕さん 吉幾三の歌ではありませんが「テレビもねー、ラジオもねー、もちろん車も走ってねー、バスは一日一度来る」という歌詞ではありませんが、私はバスも汽車も走っていない田舎で育ち、学校も小、中学校は分校で学びました。
 家は酪農家でしたので農作業、牛の世話などで中学卒業まで親の手伝いだけで終わったような気がします。そういった生活でしたが、私は辛いと思ったことが無かったように思います。
 卒業後釧路で4年間勉強をさせていただき、その後札幌で兄の会社に入社してお世話になることになりました。
 今でも忘れられない11月2日、札幌駅に着き駅前に出ると、とにかく都会だなぁと感じました。立ち並ぶ屋上看板を見て、あんな高い所で仕事をするのだと考え脂汗の出る思いでした。
 ここから「私のネオン屋稼業」が始まるわけですが、この頃の看板取り付けはパラペットの上からロープで引っ張り上げたり、高い所は丸太足場を掛け、屋上に二又を組んで滑車や手巻きウィンチ、チルホールなどで吊り上げて作業していたものでした。私も田舎で力仕事していましたから、新人といってもこのような力仕事はすぐに慣れることができました。この頃は大きな壁面ネオン看板は郊外で組み立て、馬車で運んだこともありました。
 入社した年の冬は体が動かなくなるほどの厳しい寒さで、ネオン工事のときはネオン管を着管、継線するときなど指先の仕事なので指の感覚がなくなりました。これから先この仕事が勤まるのかなと思いましたが、先輩方は今まで続けている仕事なのだから出来ないわけがないだろうと頑張りました。
 オイルショックの頃、地方に出張工事に行った帰りにガソリンスタンドで油を入れてもらえないことがあり、札幌からわざわざ運んでもらい帰って来たこともありました。また、いろいろなビルの屋上広告塔のネオンを消したときは、この先ネオン屋稼業はどうなるのかと不安に思いましたが、それほど仕事は少なくならなかったような気がします。
 仕事にも慣れてきた頃、周りの色々な所に興味を持ち出すようになってきました。ネオン管曲げ工場や、板金工場、鉄工場などを見て回りました。とくにネオン管を曲げている職人さんを見たときは、文字の形に曲げ、ガスを入れガラス管に様々な色が出るのを見て興味を持ちました。文字を作る板金工場、看板の下地になる鉄工場などの製作工程などを見て、それぞれの職人さんは素晴らしいなという思いがしました。
 私達現場の職人が現場で組み立て、工事が完了しネオンの点灯したサインを見たとき『ネオンが一番美しい!』と感動したことを思い出します。
 その後、私は昭和61年頃まで現場職人として、また、現場責任者として働いてきました。ある日社長から営業をやってみないかと言われ、現場の経験しかない私に営業などできないと思い色々考えましたが、私の将来のことを考え社長にお願いしますと返事をしました。
 それからは、今までお世話になっていたお客様の会社に行き図面をいただき、夜になってから事務所に戻り、見積りなどの作業でした。わからないことが多く、先輩の見積りを見て勉強したものでした。この頃は現場の方が良かったのではとつくづく思いました。大きな工事の見積りなどは、慣れるまではいつも徹夜でした。FAXで見積り依頼をいただくときに「明日の朝まで」と書いてあることが多く、いつも徹夜で見積り、早朝にFAXを送っていました。そんなこともお客様が私のために勉強しなさいと言ってくれているのだと思い、徹夜でがんばりました。
 見積りの仕事も慣れた頃には、受注し、現場の打ち合わせまでは私が行い、納期を守り、安全第一に納めることを現場職長や職人に指示する毎日でした。
 職人の頃には話をすることが苦手で、どのようにしたら上手く話ができるようになるか考えている頃でした。社長に突然「明日ゴルフに行くぞ」と言われ、その日にゴルフショップに行きクラブを買い夜に練習場に行き、翌朝ゴルフ場のスタートに立っていました。その時の私の体の状態は胃がギリギリ、クラブを振ったらチョロ、これが私のゴルフ人生のスタートでした。
 それからは練習に励み、お客様とゴルフに回ることができるようになりゴルフだけでなくゴルフ場往来の車内、レストランなどで色々な話を聞かせていただき勉強になりました。ススキノでの飲み会でも勉強になることが多くありました。
 ロサンゼルス、ラスベガスの視察旅行にいった時、とくにラスベガスのネオンサインを見たときに鳥肌の立ったのを覚えています。
 昨今ネオン工事が少なくなっている中、北海道、とくに札幌市は屋外広告物の規制が厳しくなり、規制のないススキノでもスポンサーのつかない鉄骨が多く見られるようになっております。私は平成11年から代表取締役社長として仕事をしておりますが、以前のような華やかなネオンのサイン工事が少しでも増えてくれることを願っている一人です。
 厳しい時代ではありますが、後継の育成に努めながら、お客様の要望に対応し、少しでも景気が上向くことを願い、日々懸命に仕事をしていきたいと思います。

Back

トップページへ戻る



2004 Copyright (c) All Japan Neon-Sign Association