納涼エッセー

 「平和ネオン」という会社があった 
関東甲信越支部
(株) 東京システック 小野 博之
 

 美空ひばりが歌手として本格的にデビューしたのは昭和23年だが、翌年「悲しき口笛」(家城巳代治監督)に映画初出演してその人気を不動のものとした。この映画を観ていない人でも題名は知っているだろう。シルクハットに燕尾服姿の、おませな女の子といったいでたちのスチール写真が印象的だった。彼女はこの映画で、素晴らしい歌唱力と物怖じしない演技を見せ、早くも天才歌手としての萌芽を示していた。
 浮浪孤児の女の子が戦争に行ったまま行方の知れなくなった兄を探し、最後にめぐり合うというストーリーである。今観れば子供向き映画といった感じだが、戦後、娯楽に飢えていた社会にあって熱狂的な人気を得た。兄妹の邂逅のきっかけをつくったのは兄が作曲した「悲しき口笛」の曲であり、ダンスホールで美空ひばりが歌うそのメロディを兄の菅井一郎が偶然聞きつけるといった筋立てである。

歌う美空ひばりのバックにネオン文字が光る
写真はNHK BS放送の放映番組より転用

 この映画の画面に「平和ネオン」の社名が出てくると教えてくれたのは私の兄であった。平和ネオンは一時期、私たち兄弟の父親が社長を務めていて、その影響は家庭生活にも深く及び、いまだによくも悪くも少年期の濃密な思い出の一部を作っていた。しかし、映画の「悲しき口笛」に平和ネオンの名前が出ているとは意外な話で、私は半信半疑であった。この映画は私も一度観ているがついぞ気がつかなかった。ただし、戦後間もない横浜の街を舞台にした映画にネオンサインのシーンがいくつか登場したことは記憶にある。とくに最後のダンスホールシーンでは横浜の歓楽街の一角という設定から、背景にネオンがちらちら映っていたように記憶している。
 折りよく今年の6月、NHKのBS放送が美空ひばり映画特集を数夜にわたって組んだ。このチャンスを逃してはならじと2、3日前から録画の予約をセットして待ち構えた。当夜帰宅したのはちょうど映画が終わった直後だったので、早速録画をチェックした。最初は早送りでざっと見たがそんなシーンは見あたらない。兄貴は別の映画と記憶違いしているのではなかろうかと疑いつつ、次にネオンの出てきそうなシーンに絞りかなり入念に見直した。そしてついに見つけることができた。それは、思ったとおりダンスホールのシーンであった。美空ひばりはダンスホールの前で通行客を相手に奏でるバイオリン弾きのおじさんを手伝うが、中の音楽がうるさくて誰も聞いてくれない。もっと演奏を小さくしてほしいと申し入れるべくホールの中に入っていくが、つい音楽に興が乗って自分が歌ってしまう。舞台のバックにあるガラス壁に大きなチューブオンリーネオンがあり、「Orion」と出ているが、件のネオンはホールの入り口脇の軒壁についた小型のサインであった。このサインが映し出されるシーンは3回あるが、社名が見えるのは初めの1回だけでそれも一瞬。あとの2回はその部分が影に入り見えなくなっている。五線の上に音符をいくつか並べたデザインで、その上にダンスホールの店名が英文字の筆記体で添えてある。音符マークの下に「平和ネオン製」の文字がはっきりと読み取ることができた。全体にゆがみがなくここはネオンではないようだ。それにしても、私にとっては昨年暮れの小津安二郎作品での不二ネオン石柱(NEOS Vol.82 掲載)に次ぐ映画シーンにおける発見である。平和ネオンなる会社は当時の業界においてそう知られた存在でもなかっただろう。まして、現在この会社の名前を知る人も少ない。そんな会社がひばりの記念碑的な映画に名を残していようとは名誉なことである。このシーンを目にしたことで当時のことが走馬灯のように蘇った。

「平和ネオン製」の文字を添えたダンスホールのサイン
写真はNHK BS放送の放映番組より転用

 平和ネオンは戦後2年目に当たる昭和21年の11月に父のほか数名の有志によって日暮里に産声を上げた共同出資会社であった。父は出生地の富山県高岡市で22歳より看板業を営み、富山県一の売上を誇る店に育て上げた。戦前は貴族院議員の選挙権は営業収益税納税者にしか与えられない特権だったが、当時富山県の看板業者でその選挙権を持つのは父だけであったとか。しかし、上海事変の勃発を機としていくたびも戦地に引っ張られ、商売は開店休業の状態を余儀なくさせられた。高岡にただ一店の大和デパートのまん前にあった店は空襲に備え、強制的に取り壊された。終戦後、除隊となって帰郷した父がゼロからやり直すべくネオンサインの将来性に着目し、単身上京して同士とともに旗揚げしたのが平和ネオンであった。
 ネオンは平和と経済発展のシンボルといわれるが、その言葉を先取りした社名であり、戦争に人生の進路を大きく妨げられた父の切なる願いが込められたものだろう。戦後の復興とともにネオンの光もあちこちに見られるようになり、街は明るさを取り戻しつつあったが、日本はまだ貧しかった。朝鮮動乱が勃発し特需で沸いたのはその4年後の昭和25年である。不運にも会社発足に前後して渇水期の電力制限が始まり、仕事になったのは年の半分程度。高額物品税も追い討ちとなり、経営はなかなか軌道に乗らなかった。父は発足当時専務に就任し、昭和28年のはじめ3代目の社長に就任した。会社はネオン曲げ職人を3、4人使い全国の同業者に加工管を売る一方、当時盛んだった商店街のアーケードネオンの受注に力を注いでいた。母と私たち兄弟はそれまで高岡に残り、父と顔をあわせるのはお盆と正月の数日間だけという生活を強いられた。仕送りはともすると遅れがちで子供たちは貧しい生活に耐えた。
 私たちは父の社長就任を機として東京の社宅に移り、やっと一つ屋根の下に住むこととなった。私が小学校6年の卒業間際のことであった。晴れやかな大都会の雰囲気に浸ったのも束の間、父の経営に次々と困難が襲った。前社長の資材横流しが発覚した。会社の収益が上がらないのはそのせいもあったことか。折悪しく手形詐欺にあったりして、資金繰りは常に厳しかった。銀行は金を貸さず、知人を頼り小口の借り入れ金を集めてなんとかその場を凌ぐ綱渡りのような毎日であった。最悪時にはお客さんのところに行く電車賃もなかったと父は話していた。そんな経営状態に責任を感じ父は昭和30年の8月に辞任した。皮肉にもその年、経済は急速に好転し、電力制限も全面解除された。「もはや戦後ではない」と評されたのはこの年である。しかし、会社はその後さらに迷走した。後継社長が経理を全面的に担当常務に任せた結果、やりたい放題な使い込みと帳簿操作がなされ、2年後にあえなく倒産した。
 父は辞任をきっかけに、現在の(株)東京システックの前身である「東京照明」を起こしたが前途は多難であった。私は翌年に控えた高校進学をあきらめ、就職先を探す一方、夕食後は夜遅くまでガラス看板の製作を手伝った。当時でも中学で就職するのは少数で、工員か雑用員ぐらいしか仕事はなかった。幸いその後奨学金を受けることで進学はできたが、自分ではどうすることもできない貧乏のつらさを味わった。長年にわたり苦労を重ねる父の後姿を見てきたので経営者にだけはなりたくないと思っていた。そんな私が現在経営を引き継ぎ28年が経過する。いまでは引き継いだことをしみじみ良かったと思い父に感謝している。人生とはわからないものだ。
 それにしても、「悲しき口笛」のネオンはいかなる経緯で平和ネオンに製作が依頼されたのだろうか。撮影舞台はセットのようだが「平和ネオン製」の文字がダンスホールの店名に負けないくらいの大きさであることも不思議である。大体、常識として店のネオンサインに麗々しく製作会社の名前などは入れない。
 このことについて兄から興味深い話を聞いた。当時、高岡の看板店時代からいた職人のAさんに聞いたのをおぼろげながら記憶していたとのことだが、製作した松竹映画のプロデューサーが映画で社名を出すから、そこで使うネオンをただで提供してほしいという依頼をしてきたというのだ。ただし、それがなんと言う題名の映画なのかは記憶になかったようだ。なにしろそのことを兄が聞いたのは中学生のときで、つい数年前にこの映画を観て始めて思い至ったそうだ。プロデューサー氏の提案を監督はいやがったそうだが、映画会社も貧しく、そんな交換条件で制作費を節約せざるを得なかったのだろう。Aさんは社名が出たのはほんの一瞬に過ぎず、不満げだったというが、それがかの有名な「悲しき口笛」なのだから文句は言えない。考えてみれば映画の中にはいろんな企業名や商品が登場する。それらの掲出には映画会社とメーカーとの間で宣伝費に代わる何らかの取引条件が交わされるのではなかろうか。「悲しき口笛」のネオンはその走りと考えれば納得できる。
 さて、不二ネオンの社名入り石柱のことだが、それがあるお寺は上野の寛永寺ではなかろうかという情報を得た。過日上野美術館に行った折寄ってみたら、まさにその石柱があるではないか。国立博物館のすぐ右隣の豪壮な寺院の石柵に根岸の老舗割烹の寄進者名が並ぶ中、不二ネオンの社名をはっきりと確認することができた。これが映画に映されたことについては当然ながら宣伝の意味はないのだろう。

上野寛永寺の表門。件の石塀はその左側 不二ネオンの石柱

 ついでながら、一昨年不幸にして倒産に到った富士電工(株)は昭和28年、札幌において「札幌不二ネオン」の名で創業している。創業者である城丸久保氏が不二ネオンの川瀬社長にほれこんで社名をあやかったものである。

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