私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.64
ネオン屋の息子として生まれ…
     (社)全ネ協名誉会長 東京ネオン(株) 廣邊裕二

廣邊裕二さん まずは、新年を迎えられました皆様に心からお祝いを申し上げます。
 昨年五月大阪での全ネ協第三十六回総会をもって、二十六年間にわたる業界活動から退任することとなりました。長い間、微力ながら大過なく役目を果たすことが出来ましたことは、多くの皆様のご支援ご協力によるものであります。深く感謝し衷心よりお礼申し上げます。
 私がネオン業を生涯の仕事にすることになりますには多少の事情があります。申し上げますと、先ず私はネオン屋の息子として生まれたからであります。私は名前の通り(裕二)次男でありますから、当然のこととして長男が家業を継ぐものであると考え、自由に自分の進むべき道を選べるものと思いました。学校を卒業するときは、すでに東京通信工業(今のソニー)に入社することになっていました。
 ところが、父と兄とが会社の経営方針について常に揉め事が絶えず、兄を将来の後継者とすることに不安になった父は私を説得し、東京ネオンに入社することを強く求めたのであります。その後、兄はこれ幸いとばかり退社してしまい、結果として私が家業を継ぐことになったのであります。
 入社後の数年間はネオン事業の業務全般について、基本的なことから勉強を始め、看板製作、現場作業、ネオン配線、安全対策等について実習いたしました。そのうち現場の仕事が好きになってきましたが、危険でもありますので、事務所での仕事をすべきとの意見を聞き入れ、図面書き、積算、見積と申請手続き等、徐々に営業活動も出来るようになり、ある程度、ネオン屋としての自信が持てるようになった、東京オリンピックの年に、結婚いたしました。
 その後は常務、専務として営業を中心に十年余り我武者羅に大型の広告塔の仕事をさせて頂きました。丁度昭和三十年代後半から東京オリンピック、そして大阪万博へと、我国が復興から高度成長に向け、日本全体が輸出を中心に大きく動き出した時期でもありましたので、ネオンサインはまさしく「平和と経済発展のシンボル」として全国津々浦々まで点灯することが出来るようになったのであります。
 我が社も経済発展と共に大きな仕事をさせてもらうことができました。代表的なものとしては、銀座の日本電気(NEC)の広告塔であり、万博の太陽の塔の製作であったと思います。その後、オイルショックにより、ネオンの消灯という、業界にとっては戦後最大の危機を迎えることになったのであります。
 私にとって、これまでは一生懸命に働けば儲かる仕事であったものが、世界情勢の変化によって、食えない業界になることを初めて体験させられました。この時、ネオン業界の創業者の一人である父が申すには、かつて昭和十四年、戦火の拡大にともなって「ネオンサインの点灯が禁止」され、廃業状態になり、若い社員はつぎつぎに戦地に送り出されていき、残ったのは年寄りと女・子供だけとなり、空襲で工場は焼失、そして敗戦。それから昭和二十四年にネオンの点灯が解禁されるまでの十年間と比ぶれば大したことはないと、我々を諭されたことは忘れることが出来ない思い出の一つであります。
 また、父は戦前、ネオンが製造禁止される時期に、やがては平和がくることを確信し、上海からネオンガスとアルゴンガスを輸入し、自宅の前の畠に防空壕を掘って蓄えたのであります。終戦直後に埋蔵したガスを取り出すのを手伝ったこともネオンにかかわる貴重な思い出であります。この事が戦後のネオンの点灯再開に大きな助けとなったことを知る人は少ないと思います。
 父が偉大なネオン業界の先達者であることと、「ネオンは平和のシンボルである」ことを自覚していた先覚者であったということを、息子として誇りに思います。
 戦後、関東を中心に各地方の同業者が集結して、「全日本ネオン業組合連合会」を設立いたしました。主なる目的は戦前からつづく、ネオンは奢侈贅沢品として60%の過酷な重税が課せられていたことに対する減税運動と、電力制限撤廃を求める全国的な業界活動を興すことが主旨でありました。
 先輩達は全力をあげこの大きな二つの難題に挑戦し、見事に克服。昭和四十三年には連合会の公益法人化を達成、「社団法人全日本ネオン協会」を誕生させることが出来たのであります。
 父が七十九歳の時に心臓にペースメーカーを入れる手術をすることになりました。無事成功いたしまして退院すると同時に私に社長を譲り隠退するといいだしたのであります。本来ですと七十二歳の時に叙勲いたしましたからその時に会長になって、社長を譲るべきと私は思っていましたが、明治生まれの男である親父は巌として聞く耳をもたず、死ぬまで社長でいたい、「嫌ならお前は辞めて出て行け」と云う始末でした。また、机の脇のくず籠を指して「中の紙屑まで俺の物だ」文句あるのかということです。それ以来社長交代について一言も口に出すことが出来なくなったのです。さすが、一代で事業を創り遂げた男の一喝には負けたのであります。
 社長になった私に、先代に替わり業界活動をすべきであるとの声がかかり、高村五郎氏のもとでいきなり関ネ協の副理事長、そして全ネ協の理事として活動することになったのであります。 (続く)

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