私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.67 (1)
運命に導かれてたどった道
     関東甲信越支部 (株)東京システック 小野博之

小野博之さん 昨年は私にとって記念すべきことや嬉しいことが重なった年となりました。
 記念すべきことは会社が昭和30年の創業以来無事に50周年の節目を迎えることができたことと、全日本ネオン協会の推薦により図らずも黄綬褒章の栄誉に浴することができたこと。また、嬉しかったことは私が昨年7月、65歳を迎えたのを期に会社の経営を心置きなく後進に引き継ぐことができたことと、いまや私のライフワークとなった感のある「世界サイン紀行」の第4巻目を出版することができたことです。
 考えてみれば、これらのことはそれぞれが決して単独ではありえなかったことばかりで、しかも、これまで歩んできた道を振り返ったとき、苦楽あざなえる縄のように不思議な運命のつながりを感じます。私にとって長い間垂れ込めていた人生の暗雲に徐々に薄日が満ちてきていたところに、突如として晴れ渡った空から太陽の光が射し渡ったような心持でした。ことに、黄綬褒章の受章は私自身関心が薄く、また生涯縁の無いものとばかり思っていましたので、めぐり合わせた運というものを強く感じました。私は信仰心は持ち合わせない人間ですが、人生の転変と運命の不思議については強く意識せざるを得ません。
 私が社会に出たのは昭和34年、高校を卒業したときですが、父がネオン会社「東京照明」を経営していたものの、自分がその将来を担うことになろうとは寸分も思っていませんでした。父はその4年前に共同経営していた「平和ネオン」という会社が倒産したため、自分で会社を興しましたが、なかなか軌道に乗らず日夜苦労を重ねていました。そのため、私は中学卒業と同時に就職せざるをえない状況にありましたが、運良く奨学金を受けることが出来、勇んで高校進学ということになりました。
 工芸を専門とする高校があることを知り、手先の仕事が好きだったことからその金属工芸科に入学しました。装身具やおもちゃ業界に就職する生徒が多く、文字通り彫金、板金、鋳金等の工芸技術のまねごとに明け暮れる楽しい3年間を過ごしました。しかし、卒業して入社した三井金属鉱業では三鷹にある研究所の窯業研究室に配属され金属工芸とは縁が切れました。当時会社は建材部門への進出を図り、軽量骨材、ガラスブロック、ガラスタイル等の建築素材の研究にあけくれました。ところが、当時、三井金属は優良企業として名が知られ、私の初任給は1万1千300円と当時高卒では平均1万円前後の中でダントツの高級だったものですが実態は大違いでした。会社は岐阜県の神岡が本拠地で、給与には3割近くの都市手当てが含まれていて、賞与を含めた年俸では同窓生に及びません。高卒は雇員と呼ばれ一生研究の雑役扱いであることが分かりました。その垣根を乗り越えるには大学を卒業する以外に無く、一念発起して入社3年目にして夜間学部に入学し昼夜奮闘しました。志願したのは仕事の関係上建築科でしたが、学ぶにつれて建築そのものの魅力にとらわれ、世の中にはこんなに素晴らしい世界があったのかと興味が深まるばかりです。3学年に進んだ段階で自分の人生はこの道しかないと思い、会社を退社、設計事務所のアルバイトで生計をたてながら卒業しました。
 当時、丹下健三の代々木屋内競技場が建ち、私は構造力学が創り出す建築デザインの美しさに目を見張り構造設計事務所に入りました。当時はパソコンはおろか電卓も無く、計算はもっぱら計算尺とジャージャー回すタイガー計算機です。余談ながら最近社会問題になった耐震設計のごまかしはその職にあった者から見ても不可解な話です。ある程度経験を積んだ者なら構造設計者ならずとも図面を見れば柱、梁の断面図で最小限必要とする鉄筋量を満たしているかどうかは見当がつくし、積算の段階で単位平面に対するコンクリート量、鉄筋量をチェックすれば不自然な数値は一目瞭然。それを関係者全員気がつかなかったとは、目が節穴なのか見てみぬ振りをしているかのどちらかでしょう。尤も、基本数値さえ入力すれば答えが出てしまう近年のコンピュータ機器に馴らされ、勘がはたらかないほど技術者の感覚を鈍麻させてしまったのかもしれません。
 構造設計は大学でも学びますが、専門の勉強は設計事務所に入ってからとなります。ところが、中学、高校と数学は得意学科のはずが、高度な設計レベルでは歯が立ちません。能力的な不足を痛感した私にとって日一日と重ねるごとに悩みが大きくなりました。
 3年を経過したとき意匠事務所に移りました。しかし、意匠設計においてはさらにクリエイティブな能力とセンスが要求されます。何かを形にしなければならないのに出てこない重圧は耐え難いものとなってきました。新米の頃なら許されることも3、4年もすればそれなりの評価を受けます。挫折感とコンプレックスにさいなまれたあげく、事務所を辞めたときはもう30歳になっていました。
 でも、それからの行き先の当てがありません。当面はと、失業保険事務所に行ったものの、結婚退職組なのか、若い女性が多い延々の行列に並んで更に暗い気持ちにさせられました。すべてに自信をなくし、いまさら何ができるわけでもなく、社会の落伍者であることを自覚しました。
 父から会社に来ないかと薦められたのはその頃でした。会社ではその前年にペンシル型の屋上広告塔が台風で落下、隣家の木造2階屋の屋根をぶち抜くという大事故を引き起こしてしていました。当時はそんな事故でも新聞種になることもなく、住居人は運のいいことに旅行に出て留守でした。明らかに依頼していた設計士のミスが原因で、きちんとした設計が出来る人材が不可欠なところから、私に構造設計を担当してほしいというのが勧誘の理由でした。
 しかし、社長の息子である私が入社すれば後々後継を担うことになるのは目に見えています。それは私が最も回避したいことでした。それまで経営者としての父親の苦労を散々見てきて、経営者にだけはなりたくないと常々思ってきたし、私には父親のような強い精神力も人を引きつけるリーダーシップも欠けていると自覚していたからです。でも、看板の設計程度ならわけはありません。もうほかには行く当ても無く、とにかく当座の身の置き所という気持ちで嘱託という身分にさせてもらって入社しました。
 当時会社は20数名の規模で、飛躍的な拡大を目指していましたが、組織としての安定性を欠いていました。そんな中で私も人間関係では悩みましたが、看板業について、経営について少しずつ勉強を重ねていき、サイン製作の面白さにも関心がわいてきました。
 入社後10年を過ぎた40歳のときに父親から後継を託されました。私が最も恐れたのは会社を倒産させる事態に遭遇することでした。生まれつきの小心さから債権者に非難を浴びせられ、社員や家族が路頭に迷うことになったらどうしようかと心配しました。いく先に皆目自信が持てず、毎日が不安でした。しかし、今振り返ってみると、現場事故で身のすくむ思いをしたり、気難しい大手得意先社長との付き合いで神経をすり減らしたりした経験はいろいろありますが、不思議に資金繰りに悩まされた記憶がありません。それも、屋外広告業界が順調に推移した時代にあったからといえますが、私が引き継いだころはもう会社の基盤が出来ていて、いい取引先に恵まれ、優秀な先輩社員に助けられたからこそと感謝しています。 (以下次号)

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