特別寄稿

 古都も驚いたビルのラッピング 
関東甲信越支部 (株)東京システック 二村 悟

 

 近年、電車、バスなど、ラッピング(=包装すること)されたデザインをよく目にする。しかし、建物をラッピングするというのは、あまり目にしたことがない。もちろん、ラッピングと一言でいってもさまざまな手法がある。
 よく知られるところでは、1995年に完成した、ブルガリア人芸術家クリストとフランス人芸術家ジャンヌ=クロードが、ベルリンの旧帝国議会議事堂(ライヒスターク)を銀色の布とロープですっぽり梱包した作品「梱包されたライヒスターク」がある。
 ラッピングとは言わないまでも、世の中に一定の認知を得た存在と言えば、考現学者・今和次郎(明治21〜昭和48年)が行った、バラックに装飾をするという活動がある。大正12年の関東大震災で東京が焦土化し、今和次郎はアクション及び尖塔社の画家を集め、バラック装飾社(大正12〜13年)を立ち上げる。バラック装飾社の活動は広く、震災復興期の粗雑なバラックに多くの彩を与えた。建物をラッピングするという意味では、初期の事例といえるだろう。
 けれども、建物とはいえ、バラック(=急造の粗末な建物)ではあまりに小規模である。ここに紹介したいのは、その外観から物議をかもし出したビルのラッピングについてである。ただし、今和次郎が行った装飾という仕掛けが、建物へのラッピングの原点になったことはいうまでもない。
 写真の建物を見て欲しい。昭和10年4月に竣工した京都朝日会館(中京区河原町三条上ル)である。設計施工ともに竹中工務店で、地上6階、地下1階の鉄筋コンクリート造のビルである。当時は、まだ京都の目抜き通りである河原町を離れれば、伝統的な町家が建ち並んでいた。突如として現れたのが、軒高31mのこのビルである。その壁面は、次の写真でわかるように、南面・西面に余すとこ無く壁画が描かれている。このため、外観が古都の風致を損なっていないか、外壁面に絵を描くことは適当な建築的取扱であったか、といった問題が提出され、実際に討議されたことが当時の「建築雑誌」に紹介されている。
 南面・西面には、モルタル下地に特殊油ペンキによって壁画が描かれている。描いたのは、林重義(明治29−昭和19年,兵庫県神戸市生)、川口軌外(明治25−昭和41年,和歌山県有田郡生)、伊藤廉(明治31−昭和58年,愛知県名古屋市生)の3名である。彼等は、三岸好太郎等とともに独立美術協会を創立した14人のメンバーの一員である。独立美術協会は、既設の団体からの絶縁を宣言し、新時代の美術の確立を謳い昭和5年に創立。翌年1月に第一回独立展を開催した。この建物は、昭和9年3月15日に起工している。昭和5年に協会を創立させた彼等にとって、世間に自らの芸術性をアピールするには、絶好のサインとなっただろう。
 このような建物は、壁画が無ければ、いわゆるモダニズムの建築の象徴である。金属・ガラスなどの工業材料の使用や幾何学的形態の組み合わせによる抽象的構成は、合理主義建築の影響である。いつ頃から、こうした塗料などを用いたビルのラッピングが生じたのか定かではない。けれども、明治維新前後から洋風建築が導入されるまでは、木造の伝統的家屋である。明治維新以降は、昭和初期まで、ヨーロッパの古典様式の建築に由来する建物自体に装飾を施したものがほとんどである。壁面がのっぺりとしたデザインを用いるようになるのは、昭和に入ってからと考えてよい。
 ドイツ・バウハウス、オランダ・デ・スティル、ロシア構成主義など一連の近代建築運動の中で、日本に影響を与えるのが昭和初期である。国際様式や合理主義建築と呼ばれるインターナショナルスタイルの建築が流行し、装飾のないコンクリートとガラスでできた現代の箱型の建物が増加した。四角い白い壁面が増え、絵心をくすぐられた画家も多かったことだろう。それが、京都朝日会館のような巨大な壁画によるラッピングへとつながる。
 第二次世界大戦前、戦局が厳しくなる中で、昭和14年、空襲対策として建物の偽装に関する内務省通達が出された。ビルなど、巨大な建物には迷彩塗装を施せというのだ。現在でも、その名残が見てとれる建物は多く、迷彩のため姫路城に黒い網をかけたのは有名な話である。
 近年では、道路脇やビルの壁面、住居のシャッターなどに落書きは見られるが、ビルの外壁面全体に手書きで描かれた装飾を見ることはない。当時、日本の芸術界は、思想と世情が混沌とする大きな過渡期にあった。その中で、芸術家自らが独自性・芸術性を強く打ち出すには、この奇想天外なラッピングサインは有用であった。特に、長い歴史を誇る古都・京都に、バビロンの塔のごとく、力強くそびえ建つこの建物をみた三人の芸術家は、天下を取ったかのような優越感と、自らの芸術性への自閉的問いかけとの狭間で、喜び、そして苦しんだであろう。

写真出典:建築学会 建築雑誌 第49輯第604号、昭和10年10月

 

 

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