私のネオン屋稼業奮戦記

 Vol.68
仕事は施主に喜んでもらうためにするもの
     中部支部 (有)大進ネオン 木藤雅晴

木藤雅晴さん 私が正式にこの仕事に就いたのは昭和64年1月7日。そう、翌日の1月8日には、時の小渕官房長官が『平成』と書かれた紙を手にした姿がひっきりなしにテレビに映り、平成の世が始まった前日からだった。ただし、それはあくまで書類上の話で、実際には物心がつく前からネオンには触れていた。
 当社は私の祖父である貞雄が立ち上げ、父、淑晴が後を継いでいたためだ。子供の頃、電極作りの手伝いをしてお小遣いをもらい、近所の駄菓子屋に駆け込んでいた事を今でも覚えている。
 さて、19歳で始めたこの仕事。これまで18年弱の間には色々な現場に携わってきた。中でも一番印象に残っているのは、地元、岐阜のゲームセンターのポールサインの工事だ。
 それほど大きくもなく、何の変哲もない10M程のポールサインだが、私が初めて企画から立ち上げ仕上げたサインだ。そのゲームセンターは、ほとんど国道沿いにあるものの、隣の建物に遮られてゲームセンターの存在自体が分かりにくいところだった。国道沿いには赤い行灯タイプのポールサインが既に建っていたが、集客に繋がっていなかった。そこで、新たにポールサインをもう一つ建てたいというのが施主の依頼だった。
 施主の要望を聞いた後、デザイン案を持って行ったのだが、このデザイン案は、色に関して施主からの要望を裏切ったものだった。施主は「赤いサインにして欲しい」との事だったが、私はエメラルドグリーンを主体にしたデザインにしたのだ。既存の赤の行灯サインが周囲の色に溶け込んでしまい見えにくかったためだ。必死で施主を説得し、なんとか私のデザインで作らせてもらった。
 出来上がった時も感慨にふけったが、本当に嬉しかったのは、2ヵ月程してから、施主に「あのサインを作ってから、集客が1.5倍程に増えた。ありがとう」と言われた時だった。
 “仕事はお客様に喜んで頂く為にするものだ”
 “会社は社会に貢献する為にあるんだ”、という事が言われるが、まさにその言葉を実感した時だった。これからも、あの時の気持ちを忘れる事なく仕事に取り組んで行きたい。



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