サイン屋稼業奮戦記

 Vol.147
次世代にどうつなぐか暗中模索
    北海道支部 (株)フクイ製作所 福井智明

福井智明さん 父親が20才代後半で新広堂という看板屋に入り、看板のノウハウを修業して30才代前半で個人商店としてのフクイ製作所を始めました。私が3才の時でした。私が小学校1年生になる昭和41年に株式会社フクイ製作所を設立しました。
 私には、兄が1人いて2人兄弟です。兄は子供の頃から父の商売の後は継がないと言っていましたので、私は事あるごとに親戚の人に会社の後を継ぐのかと聞かれていました。
 そして、北海道工業大学の機械科を卒業して、鉄骨加工会社の設計部門に就職しました。鉄骨の図面を書き、工場での仕上がり検査を行い、現場で何か問題が起これば、出張もたまにはありました。今、思えば、従業員としての立場の5年間は、いい経験になりました。
 その後、父の後継者として、潟tクイ製作所に入社することになりました。5年間の従業員としての時とは違い、経営者になるために経理の事、お客さん相手の営業らしき事、請求書、見積書からあらゆる事、全てが自分の責任でやらなければならない事になりました。従業員としての立場だったものが、逆転です。
 入社して数年は、今と違いバブル景気全盛時代で、仕事が溢れかえり、夜遅くまで残業が続き、休みもあまりなく大変でしたが、ある意味いい時代だったかもしれません。
 当社で売上が一番多かった時は、平成7年から10年ころ、道内にマックスバリュ、サティ、などの商業施設がたくさんでき、チャンネル文字、壁面看板、自立看板など、大量に受注していました。今はもう撤去され、鉄骨のみ残っているところがあるくらいです。当時は1億4千万円の売り上げがあり、今の2倍でした。私には、子供が3人いて、ちょうどその子供たちが小さい頃と重なって、子供を遊園地やキャラクターショーなど、いろいろなところに連れていって、公私ともに忙しい時でした。
 思い出に残っている仕事は、平成14年ころに、札幌駅、大丸、ステラプレイスを手掛けた事です。大丸の直径3mのマークのアンドン、壁面の多くのチャンネル文字などです。札幌駅の入口のランマの文字は、真鍮ブロンズメッキなのですが、メッキの色がうまくでなかったので、メッキをやり直した事もありました。屋内の天井から吊るしたアンドン、エレベーター案内など、駅の中のサインも多数作りました。
 私は46才で社長になりましたが、その頃父は70才代で、実質的な経営は私がやっていましたので、あまり違和感はありませんでした。ただ、銀行に対しての個人保証が重くのしかかってきました。今もそうなのですが、会社の何から何まで、何かあると、私一人の個人保証にかかってきます。
 社長は、孤独で大変だという事が、身に染みてわかりました。
 父から受け継いだ考えとして、お客さんを絞らない、1社の売上を全体の30%くらいに抑えて、リスクを軽減する。1社に大きく絞ると、万が一のとき、自社の経営もだめになる。下請に徹する事、仕事は広告代理業や同業看板業から受ける。リスク分散の考え方である。仕事上、エンドユーザーに会うことはない、うちのような金属製造業あり、電気工事業、アクリ加工、取付屋があり、いろいろな会社が関わって完了する。
 平成7年から、北海道中小企業家同友会で、異業種のみなさんとの交流もしています。看板業界だけではなく、いろいろな業種の人の話を聞く事ができ、大変参考になりました。一つの事に対して業種によっても違うし、経営する立場によっても違うし、見る切り口も変わってきます。
 また15年前ころは、日広連の青年部の北海道の会長をやった事もありました。東京や地方に年に2回ほど行き、知り合いができ、個人的に視野が広がり、時間とお金を使いましたが、いい思い出になっています。
 今は町内会長もやっています。5年目です。地域のみなさんのゴミステーション、パートナーシップ除雪などの世話をしています。町内会活動にたずさわってみて、地域に密着した仕事のあり方、地域に貢献するという考え方があることもわかりました。
 今年6月に、札幌市中央区にあった事務所、工場を、跡地にマンションを建てるので、立ち退きになり、元々あった札幌市西区発寒の工場を増築して引っ越ししました。50年間使っていた事務所、工場なので思い入れもありましたが、心機一転引っ越しました。引っ越す際は、50年間のゴミはものすごいもので、大変な思いをしました。小学校4年生から使っていた事務所、工場が取り壊され、重機で潰される時は、何か寂しい、やるせない気持ちになりました。
 私には26才の息子がいるのですが、今はイベントの仕事をしています。札幌ドームなどで、イベントがあると、物販の手配、人の手配などをしています。今のところ会社の後を継ぐ様子は見られません。何とか、後を継いで欲しいという気持ちもありますし、これから先の見えない業種なので、後を継いでも苦労するだけという思いもあります。
コロナ禍の中、無利子、無担保の借入金を借りて、今のところ何とかなっていますが、返さなければならない金なので、返済猶予はありますが、返済猶予の最中に世の中が何とか収まっていることを願うばかりです。将来が全く見えない状態が続く中、暗中模索で頑張るだけです。



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